東京都の商店街・商店群(主に東京23区内)を散歩し、様子を写真つきで簡単にまとめているブログです。 ※管理人=志歌寿ケイト(しかすけいと)
現在、東京の商店街・商店群の紹介記事を約2000件掲載している他、散策モデルコース図などもあります。
※各記事の内容は主観的なものであり、またその日付の時点のものですのでご了承ください。なくなった商店会も含んでいます。
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2005年01月01日
東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その020 知られざる池袋
その020 知られざる池袋 (2005年11月05日歩行)
池袋の北側に「池袋本町」があるのを知ったのは、商店街歩きを始めてからだった。この日はそこに行ってみた。
北池袋駅で降りて池袋本町の中央部へ進むと、ビル街となった池袋とはまったく違う旧市街地とも言うべき町並みが広がっていた。池袋の南、椎名町方面も住宅密集地だが、そこともまた異なる。道や家が少しゆったりしていて、より成立が古い街という感じだ。こんな池袋もあったのかと思う。
池袋本町を切り分けるようにふたつの商店街がある。お約束の、街灯や花飾りがついた古風な商店街だ。どちらもすでに勢いを失っていて、特に大きなスーパー等がない割には寂しい。間口の広い店が比較的多いが、閉まっていることも多い。小さなパチンコ店、表に木と硝子の引き戸が健在の店など、ここは地方の街かと思うほどの風景だ。池袋の名を冠してはいても、この南北のギャップはすごい。池袋が大好きな方々は、ぜひこの池袋本町も歩いてみてほしい。
北池袋の線路沿いには、飲食店の並ぶ狭い路地の一角がある。これも元々は普通の商店街だったのではないかと思う。池袋の飲み屋街の姿も昔はこうだったのではないかなどと想像してしまう。昼間なので人っ子一人歩いていない。線路脇の盛土部分には鮮やかな赤の鳥居が映える、小さなお社がある。ちょうど秋ということで、背後にあるピラカンサが真っ赤な実を鈴なりにしていたのも印象深い。
後半は板橋駅の東側、滝野川へ。中山道上に位置し、商店街の本数が多い地域だ。実際歩いてみると、中核と言える通りがないのもまた特徴である気がした。区名にまでなっている板橋駅にあまり存在感がないのと似ている。市場通りというのがあり、最初は卸売市場があったのかと思ったが、これは現在チェーンスーパーとなったとあるスーパーのことだった。
駅から離れて、中山道新道を渡って北側、傾斜地の住宅街である宮元と呼ばれる地域にも商店街がある。北側斜面で、全体に薄暗い。道路もほとんどが狭い。少しだけ幅の広い、古くからあると見られるいくつかの街路に、商店街が細く続いていく。辞めていく店が一般住宅に変わりつつあるこの商店街を通って石神井川に降りていくところに八幡神社があり、これが滝野川村の鎮守だという。街道沿い以外の集落としては、低地であるこのあたりがいちばん古いのかもしれないと思った。
最後に飛鳥山のあたりを一回りした。電停から入る路地に商店街があったようだけれど、今はもうほとんど店がなくなり、表通りに移行していた。競争横丁という名前が手持ちの地図に書いてあるが、痕跡すら見つけられなかった。
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池袋の北側に「池袋本町」があるのを知ったのは、商店街歩きを始めてからだった。この日はそこに行ってみた。
北池袋駅で降りて池袋本町の中央部へ進むと、ビル街となった池袋とはまったく違う旧市街地とも言うべき町並みが広がっていた。池袋の南、椎名町方面も住宅密集地だが、そこともまた異なる。道や家が少しゆったりしていて、より成立が古い街という感じだ。こんな池袋もあったのかと思う。
池袋本町を切り分けるようにふたつの商店街がある。お約束の、街灯や花飾りがついた古風な商店街だ。どちらもすでに勢いを失っていて、特に大きなスーパー等がない割には寂しい。間口の広い店が比較的多いが、閉まっていることも多い。小さなパチンコ店、表に木と硝子の引き戸が健在の店など、ここは地方の街かと思うほどの風景だ。池袋の名を冠してはいても、この南北のギャップはすごい。池袋が大好きな方々は、ぜひこの池袋本町も歩いてみてほしい。
北池袋の線路沿いには、飲食店の並ぶ狭い路地の一角がある。これも元々は普通の商店街だったのではないかと思う。池袋の飲み屋街の姿も昔はこうだったのではないかなどと想像してしまう。昼間なので人っ子一人歩いていない。線路脇の盛土部分には鮮やかな赤の鳥居が映える、小さなお社がある。ちょうど秋ということで、背後にあるピラカンサが真っ赤な実を鈴なりにしていたのも印象深い。
後半は板橋駅の東側、滝野川へ。中山道上に位置し、商店街の本数が多い地域だ。実際歩いてみると、中核と言える通りがないのもまた特徴である気がした。区名にまでなっている板橋駅にあまり存在感がないのと似ている。市場通りというのがあり、最初は卸売市場があったのかと思ったが、これは現在チェーンスーパーとなったとあるスーパーのことだった。
駅から離れて、中山道新道を渡って北側、傾斜地の住宅街である宮元と呼ばれる地域にも商店街がある。北側斜面で、全体に薄暗い。道路もほとんどが狭い。少しだけ幅の広い、古くからあると見られるいくつかの街路に、商店街が細く続いていく。辞めていく店が一般住宅に変わりつつあるこの商店街を通って石神井川に降りていくところに八幡神社があり、これが滝野川村の鎮守だという。街道沿い以外の集落としては、低地であるこのあたりがいちばん古いのかもしれないと思った。
最後に飛鳥山のあたりを一回りした。電停から入る路地に商店街があったようだけれど、今はもうほとんど店がなくなり、表通りに移行していた。競争横丁という名前が手持ちの地図に書いてあるが、痕跡すら見つけられなかった。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その019 現代の生活を記憶する
その019 現代の生活を記憶する (2005年11月04日歩行)
この日は快晴。正午、南北線の志茂駅の階段を上る。
志茂は今でこそ赤羽とつながる住宅密集地だが、もともと「下村」という名の古い村である。大正時代までは荒川沿いに取り残されたような村落だったようだ。その後、昭和に入って「志茂」に改称し、北本通りと王子電車が開通、今では地下鉄南北線が王電に置き換わっている。しかしやはり、東京で「志茂ってどこ?」と訊いても「さあ?」という反応がほとんどだろうと思う。存在感は大正時代までと変わっていないのではないか。
志茂銀座という古い通りのほか、JR赤羽駅に向かう街路がそのまま商店街になっている。赤羽駅から離れるほど寂しくなるという、わかりやすい状況だ。地下鉄の志茂駅に関しては、ほとんど影響していないと言っていいくらいだ。地下鉄の駅はなかなか拠点になりづらいものだが、ただの通過点にしかならないというのはなんだかもったいない。
隣の赤羽にはこの日は行かない。基本的に、いつでも行けるような大きな繁華街は除外している。それに、いちいちそういう場所の商店会までブログに書くかどうかも迷っていたので、最初のうちは手を出さないと決めていた。
このあとはJR埼京線の十条駅前を歩いた。十条銀座のアーケードを中心に、さらに各方向に別の商店街も伸びていく。駅そのものには商業ビルが設置されていないし、大型スーパーの類もない。ここはまさに商店街だけが商業地といえる。しかも、まっすぐな道路がそのまま商店街に相当しているから、人の通り道とも重なっている。こうなってくれば、商店街としては理想的な環境で、賑わうのも当然である。
東京ほどの人口があれば、良い店ならどこにあったってそれなりに客は来るだろう。どこに店を作るかだって自由だ。ただ、街の面的な楽しさや利便を考えていくならば、「商業地はここ、人の通る道はここ」というのが明確なほうがいい。人の流れが変わるのには理由があり、それを自然で成り行きに任せるようなものとして扱うのは、僕には無理がある。人の流れを変えるのであれば、それに合わせて土地利用も考えなければならない。それができない街は、どんどん面が失われ、ただの点になっていく。それは街ではないかもしれない。
最後は旧中山道の板橋仲宿の商店街を歩いた。旧道に沿っていくつかの商店会が並んでいるが、時間的に行けそうだったので、そのうちのひとつだけを半端ながら覗いてみた。
僕は東京を歩き見る時、江戸まで遡るつもりはほとんどない。江戸の頃ああだったこうだった、と言っても、かなり深く見なければその名残りすら感じられない。それよりは、その土地の現代の生活文化を感じるほうを優先したい。僕の中では、江戸が重く平成が軽いわけではない。今の生活のしかたも、何十年か経てば語り継ぐべきものになっていき、そしてやがて薄れて見えないものになる。僕にできるのは今をしっかり記憶することだ。
仲宿の商店街は三田線の板橋区役所駅にも近く、広い中山道新道と比べると商業地として今も充分機能している。青果店もカフェも飲み屋もある。また、スーパーの裏側の少し土地が低くなったあたりの狭い路地には、銭湯前商業地とでも言うべき小さな商店の集まりもあった。江戸以来の街道がそこを走っていることよりも、それぞれの場所にあるこうした地域生活の営みに出会えることが、僕にとっては何より楽しい。
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この日は快晴。正午、南北線の志茂駅の階段を上る。
志茂は今でこそ赤羽とつながる住宅密集地だが、もともと「下村」という名の古い村である。大正時代までは荒川沿いに取り残されたような村落だったようだ。その後、昭和に入って「志茂」に改称し、北本通りと王子電車が開通、今では地下鉄南北線が王電に置き換わっている。しかしやはり、東京で「志茂ってどこ?」と訊いても「さあ?」という反応がほとんどだろうと思う。存在感は大正時代までと変わっていないのではないか。
志茂銀座という古い通りのほか、JR赤羽駅に向かう街路がそのまま商店街になっている。赤羽駅から離れるほど寂しくなるという、わかりやすい状況だ。地下鉄の志茂駅に関しては、ほとんど影響していないと言っていいくらいだ。地下鉄の駅はなかなか拠点になりづらいものだが、ただの通過点にしかならないというのはなんだかもったいない。
隣の赤羽にはこの日は行かない。基本的に、いつでも行けるような大きな繁華街は除外している。それに、いちいちそういう場所の商店会までブログに書くかどうかも迷っていたので、最初のうちは手を出さないと決めていた。
このあとはJR埼京線の十条駅前を歩いた。十条銀座のアーケードを中心に、さらに各方向に別の商店街も伸びていく。駅そのものには商業ビルが設置されていないし、大型スーパーの類もない。ここはまさに商店街だけが商業地といえる。しかも、まっすぐな道路がそのまま商店街に相当しているから、人の通り道とも重なっている。こうなってくれば、商店街としては理想的な環境で、賑わうのも当然である。
東京ほどの人口があれば、良い店ならどこにあったってそれなりに客は来るだろう。どこに店を作るかだって自由だ。ただ、街の面的な楽しさや利便を考えていくならば、「商業地はここ、人の通る道はここ」というのが明確なほうがいい。人の流れが変わるのには理由があり、それを自然で成り行きに任せるようなものとして扱うのは、僕には無理がある。人の流れを変えるのであれば、それに合わせて土地利用も考えなければならない。それができない街は、どんどん面が失われ、ただの点になっていく。それは街ではないかもしれない。
最後は旧中山道の板橋仲宿の商店街を歩いた。旧道に沿っていくつかの商店会が並んでいるが、時間的に行けそうだったので、そのうちのひとつだけを半端ながら覗いてみた。
僕は東京を歩き見る時、江戸まで遡るつもりはほとんどない。江戸の頃ああだったこうだった、と言っても、かなり深く見なければその名残りすら感じられない。それよりは、その土地の現代の生活文化を感じるほうを優先したい。僕の中では、江戸が重く平成が軽いわけではない。今の生活のしかたも、何十年か経てば語り継ぐべきものになっていき、そしてやがて薄れて見えないものになる。僕にできるのは今をしっかり記憶することだ。
仲宿の商店街は三田線の板橋区役所駅にも近く、広い中山道新道と比べると商業地として今も充分機能している。青果店もカフェも飲み屋もある。また、スーパーの裏側の少し土地が低くなったあたりの狭い路地には、銭湯前商業地とでも言うべき小さな商店の集まりもあった。江戸以来の街道がそこを走っていることよりも、それぞれの場所にあるこうした地域生活の営みに出会えることが、僕にとっては何より楽しい。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その018 旧川越街道
その018 旧川越街道 (2005年11月02日歩行)
今日は池袋の外れからのスタートとした。
池袋はどの方向もビル街と住宅密集地が隣接している。今僕が訪ねている旧日出町も半分は再開発で消えてしまったそうだが、今も都電荒川線寄りに商店街を含めた古い宅地が残っている。その商店街の駄菓子屋には硬貨を弾くゲーム台が複数あり、その上には座布団が干してある。オープンな八百屋に靴屋。天ぷら、揚げ物を売る店もある。リアルタイムでは知りもしないノスタルジーにくらくらしそうだ。なんだかんだ言っても、僕はこの手の古いものは好きである。懐かしさではなく、自分が産まれる前に流行した文化への興味だ。僕くらいの年代にとっては、街が博物館でもある。
忙しいことに、次は東武東上線で東武練馬に向かう。西武線の練馬駅とはかなり離れていて、駅そのものは板橋区にあるという、余所者には難解な地域だ。駅南側の旧川越街道沿いにかつて「下練馬宿」があり、今はいつくかの商店会が連なっている。
東京の場合、街道沿いといっても、木の壁や塀で構成された住宅や大きな商家というものは少ない。路面側だけを洋風にした看板建築の店、または市場のような間口の大きい共同店舗や青果店、戦後すぐに建てられたような煤けたビル、そしてそれらが生まれ変わった中小の下駄履きマンションといったものが主体だ。もちろん一般家屋は古くなれば建て替えられる。その点では街道もそれ以外でもあまり風景の差はなく、よほど敏感な人でない限り、言われなければ街道だと気づかない。街に溶けこんでしまっているのだ。
ただ、大きな通りに飲み込まれてしまわない限り、道筋そのものが失われることは少ない。土地取得が難しいこともあり、全てをひっくり返すような区画整理はあまり行われていないのだ。
飲食店が並ぶ東武練馬駅前から東へ歩いて行くと、かつては宿場だった商店街が次第に姿を現す。地名もただ単に「宿」だったそうだ。ここは成り立ちが古いだけではなく、賑わいや個性も兼ね備えている。ただ、気になることに、真ん中に環八通りの工事が行われている。広い道路で分断されるのは商店街にとっては痛い。大丈夫だろうかと心配したが、この部分は地下を通すことになっているようだ。「俺たちの街もそうしてくれていたら」と泣いている商店街もあるかもしれない。
旧街道をそのまま進んで上板橋駅南口に達し、また電車に乗って大山駅に移動した。大山駅の西側には、五百メートル近くに渡って真新しいアーケードを備えた商店街がある。
東京の商店街のアーケードは、老朽化したら取っ払ってしまうかだましだまし使うところが多いのだが、ここはわざわざ立派なものを再建したのだ。なんとも言えないぼんやりとした緑の色調で統一されていて、都会的な印象を与えている。何より、商店街の中身がそれに負けずに充実しているのが良い。アーケードがあるから客が集まるのではなく、多くの客がいるからアーケードが便利なのだ。「設備だけが新しくなった寂しい商店街」は設備費の無駄だし、補助金が出ているとしたらなおさらだ。大山はそうしたアンバランスさのない、数少ない「納得できる」アーケード街だと思う。
反対側の、屋根のないほうの商店街と周辺路地をうろうろしたあと、どこかで揚げ物でも買って持ち帰ろうと、僕はふたたびアーケードに消えた。
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池袋はどの方向もビル街と住宅密集地が隣接している。今僕が訪ねている旧日出町も半分は再開発で消えてしまったそうだが、今も都電荒川線寄りに商店街を含めた古い宅地が残っている。その商店街の駄菓子屋には硬貨を弾くゲーム台が複数あり、その上には座布団が干してある。オープンな八百屋に靴屋。天ぷら、揚げ物を売る店もある。リアルタイムでは知りもしないノスタルジーにくらくらしそうだ。なんだかんだ言っても、僕はこの手の古いものは好きである。懐かしさではなく、自分が産まれる前に流行した文化への興味だ。僕くらいの年代にとっては、街が博物館でもある。
忙しいことに、次は東武東上線で東武練馬に向かう。西武線の練馬駅とはかなり離れていて、駅そのものは板橋区にあるという、余所者には難解な地域だ。駅南側の旧川越街道沿いにかつて「下練馬宿」があり、今はいつくかの商店会が連なっている。
東京の場合、街道沿いといっても、木の壁や塀で構成された住宅や大きな商家というものは少ない。路面側だけを洋風にした看板建築の店、または市場のような間口の大きい共同店舗や青果店、戦後すぐに建てられたような煤けたビル、そしてそれらが生まれ変わった中小の下駄履きマンションといったものが主体だ。もちろん一般家屋は古くなれば建て替えられる。その点では街道もそれ以外でもあまり風景の差はなく、よほど敏感な人でない限り、言われなければ街道だと気づかない。街に溶けこんでしまっているのだ。
ただ、大きな通りに飲み込まれてしまわない限り、道筋そのものが失われることは少ない。土地取得が難しいこともあり、全てをひっくり返すような区画整理はあまり行われていないのだ。
飲食店が並ぶ東武練馬駅前から東へ歩いて行くと、かつては宿場だった商店街が次第に姿を現す。地名もただ単に「宿」だったそうだ。ここは成り立ちが古いだけではなく、賑わいや個性も兼ね備えている。ただ、気になることに、真ん中に環八通りの工事が行われている。広い道路で分断されるのは商店街にとっては痛い。大丈夫だろうかと心配したが、この部分は地下を通すことになっているようだ。「俺たちの街もそうしてくれていたら」と泣いている商店街もあるかもしれない。
旧街道をそのまま進んで上板橋駅南口に達し、また電車に乗って大山駅に移動した。大山駅の西側には、五百メートル近くに渡って真新しいアーケードを備えた商店街がある。
東京の商店街のアーケードは、老朽化したら取っ払ってしまうかだましだまし使うところが多いのだが、ここはわざわざ立派なものを再建したのだ。なんとも言えないぼんやりとした緑の色調で統一されていて、都会的な印象を与えている。何より、商店街の中身がそれに負けずに充実しているのが良い。アーケードがあるから客が集まるのではなく、多くの客がいるからアーケードが便利なのだ。「設備だけが新しくなった寂しい商店街」は設備費の無駄だし、補助金が出ているとしたらなおさらだ。大山はそうしたアンバランスさのない、数少ない「納得できる」アーケード街だと思う。
反対側の、屋根のないほうの商店街と周辺路地をうろうろしたあと、どこかで揚げ物でも買って持ち帰ろうと、僕はふたたびアーケードに消えた。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その017 昭和
その017 昭和 (2005年11月01日歩行)
さて、そろそろ昭和というワードも飽きてきた頃だと思う。ところが今日は昭和も昭和、どっぷりと昭和な商店街が予定に組まれている。
昭和というのは、ある時期を指すにはあまりに長すぎる。だからそれぞれが勝手な昭和を想像している。「昭和が好き」と言う人でも、戦前や戦中の昭和は意識になかったり、最後の十年くらいだけを指して「昭和」と言ったりする。これは「東京」という言葉にそっくりだと思う。東京はさまざまな場所がありすぎる。だからそれぞれが勝手な東京を想像している。東京とは旧東京市の範囲だけだと言う人もいるし、東京に住んでいても山手線周辺の繁華街のみしか東京のイメージに含まない人、僕のように「東京都は全て東京」と分類する者、地方だと「埼玉でもまあ東京だな」という人まで、実にいろいろなのだ。
最初に歩いた鳩の街は、水戸街道から墨堤通りを結ぶ細い街路にある商店街で、提灯が道をジクザクに横切るように下がっていた。赤線ではないが銘酒屋(私娼窟)があった地域で、よく見ればそれっぽいタイル貼りの建物が複数ある。店はほとんどが古い二階建てだ。駅に接していない割には、営業店は残っているほうだと思う。
北東にある地蔵坂の商店街は二車線の通りで、若干建物が高い。通りが広い分、がらんとして見える。むしろ通りの北側の銭湯周辺の家屋の佇まいがかなりレトロで魅力的だと思った。便所部分が外に飛び出していて、窓枠の外れかかったようなアパートは哀愁たっぷりだ。さらに北の大正通りも同じく二車線で、こちらは小さな地場スーパーがある。かつてほんの一時期だけ南側に京成白髭線が走っていて、今でも航空写真で見るとそれらしい土地境界がわかる。寂れ具合は地蔵坂も大正通りも大差ない。
大正通りと繋がるいろは通りは、他と比べると間口が大きい店舗が多く、上層に住居を備えたやや背が高く特徴的な造りの商店がいくつかある。また、このあたりもカフェーの跡がある。裏道にスナック街があるのもその名残だろうか。
鐘ヶ淵へと向かうところにある西町の商店街は、鳩の街と同じく道幅が狭い。さほど賑わいはなく、建物も周囲に比べれば一般的で、ここでは写真は数枚しか撮らなかった。鐘ヶ淵には他に三本の商店街が集まる。中でも駅西側すぐのところの商店街は短いながらも超レトロな雰囲気がある。地面に商品を並べた青果店、カネボウバーバーチェーンと書かれた理容店。いまや数少ない、店名の羅列してあるアーチも見もの。鐘ヶ淵紡績があった頃は賑わったのだろうか。
駅のベンチで休憩し、電車に一駅だけ乗って、東向島駅へ出た。商店街歩きでは公園の少ないところを通ることが多く、駅は貴重な休憩場所だ。喫茶店には入ればいいかもしれないが、屋外のトイレも限られているから、よほど暑い時でないと水分は摂りたくない。
向島六丁目の商店群は、古い商店とくねった路地の生活感とのマッチングが最高だった。独自の街灯などは見当たらない。本当に商店会がないのか確認はしなかったが、甘味処やあられ店などまであり、過去にはほぼ商店街と同等の機能があったと思う。
その先、曳舟川を越えると八広の商店街となる。過去には向島駅と映画館があったというが、現状はかなり厳しい立地だ。線路だけが目の前にあるのは悔しいだろうと思う。南東にはコンニャク稲荷があり、その前にも小さな商店街がある。やっている店は少なかったが、ガラスケース内に陳列するレトロなパン店を確認できた。
最後に京島にある橘の商店街を歩いた。ここは今回唯一、かなりの積極性を持って運営されている商店会だ。店舗の営業率は高く、メインの狭い通り以外にも店が広がっている。線路は南に通っているのだが駅は五百メートルほど離れていて、その割に健闘していると言って良い。もちろん二階建ての店がほとんどで、コッペパンの店やレコードを置く店などレトロな雰囲気も盛りだくさん。スーパーとも両立している。商店街入口の神社横の広場には、いつもお年寄りがたまってのんびりしている。
と、以上淡々と振り返ってみた。この日歩いた、東向島、鐘ヶ淵、そして京島という墨田区北部のあたりは、いわゆる旧東京市ではない。寺島・隅田・吾嬬の三町が向島区となり、さらに本所区と合併して墨田区となったものだ。ここが今や東京全域で一番というくらい、古い町並みを残している。僕もその点ではとても楽しませてもらっているし、この地域の散策をひとに薦めることもある。が、現役の「街」として元気かというと、そうでもない。それはやはり、街の拠点を持てていない弱さだろうと思うし、それを跳ね返すには相当なパワーが必要だと思う。
私娼窟の名残が味わえる鳩の街、古い家屋が迷路のような路地に集まる鐘ヶ淵、現役で頑張る橘の商店街、どれも見所はある。しかしレトロさの興奮を抑えて冷静に見れば、たまには歩きに行こうと思える街ではあるけれど、それ以上ではない。せっかく魅力のある街並みを維持し人もたくさん住んでいるのに、商業地としての魅力が乏しいのは惜しいと思う。現代に合わせた店舗の再利用を進めたり、もう少しさまざまな人に見てもらえるような売りを作ってもいいと思う。
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さて、そろそろ昭和というワードも飽きてきた頃だと思う。ところが今日は昭和も昭和、どっぷりと昭和な商店街が予定に組まれている。
昭和というのは、ある時期を指すにはあまりに長すぎる。だからそれぞれが勝手な昭和を想像している。「昭和が好き」と言う人でも、戦前や戦中の昭和は意識になかったり、最後の十年くらいだけを指して「昭和」と言ったりする。これは「東京」という言葉にそっくりだと思う。東京はさまざまな場所がありすぎる。だからそれぞれが勝手な東京を想像している。東京とは旧東京市の範囲だけだと言う人もいるし、東京に住んでいても山手線周辺の繁華街のみしか東京のイメージに含まない人、僕のように「東京都は全て東京」と分類する者、地方だと「埼玉でもまあ東京だな」という人まで、実にいろいろなのだ。
最初に歩いた鳩の街は、水戸街道から墨堤通りを結ぶ細い街路にある商店街で、提灯が道をジクザクに横切るように下がっていた。赤線ではないが銘酒屋(私娼窟)があった地域で、よく見ればそれっぽいタイル貼りの建物が複数ある。店はほとんどが古い二階建てだ。駅に接していない割には、営業店は残っているほうだと思う。
北東にある地蔵坂の商店街は二車線の通りで、若干建物が高い。通りが広い分、がらんとして見える。むしろ通りの北側の銭湯周辺の家屋の佇まいがかなりレトロで魅力的だと思った。便所部分が外に飛び出していて、窓枠の外れかかったようなアパートは哀愁たっぷりだ。さらに北の大正通りも同じく二車線で、こちらは小さな地場スーパーがある。かつてほんの一時期だけ南側に京成白髭線が走っていて、今でも航空写真で見るとそれらしい土地境界がわかる。寂れ具合は地蔵坂も大正通りも大差ない。
大正通りと繋がるいろは通りは、他と比べると間口が大きい店舗が多く、上層に住居を備えたやや背が高く特徴的な造りの商店がいくつかある。また、このあたりもカフェーの跡がある。裏道にスナック街があるのもその名残だろうか。
鐘ヶ淵へと向かうところにある西町の商店街は、鳩の街と同じく道幅が狭い。さほど賑わいはなく、建物も周囲に比べれば一般的で、ここでは写真は数枚しか撮らなかった。鐘ヶ淵には他に三本の商店街が集まる。中でも駅西側すぐのところの商店街は短いながらも超レトロな雰囲気がある。地面に商品を並べた青果店、カネボウバーバーチェーンと書かれた理容店。いまや数少ない、店名の羅列してあるアーチも見もの。鐘ヶ淵紡績があった頃は賑わったのだろうか。
駅のベンチで休憩し、電車に一駅だけ乗って、東向島駅へ出た。商店街歩きでは公園の少ないところを通ることが多く、駅は貴重な休憩場所だ。喫茶店には入ればいいかもしれないが、屋外のトイレも限られているから、よほど暑い時でないと水分は摂りたくない。
向島六丁目の商店群は、古い商店とくねった路地の生活感とのマッチングが最高だった。独自の街灯などは見当たらない。本当に商店会がないのか確認はしなかったが、甘味処やあられ店などまであり、過去にはほぼ商店街と同等の機能があったと思う。
その先、曳舟川を越えると八広の商店街となる。過去には向島駅と映画館があったというが、現状はかなり厳しい立地だ。線路だけが目の前にあるのは悔しいだろうと思う。南東にはコンニャク稲荷があり、その前にも小さな商店街がある。やっている店は少なかったが、ガラスケース内に陳列するレトロなパン店を確認できた。
最後に京島にある橘の商店街を歩いた。ここは今回唯一、かなりの積極性を持って運営されている商店会だ。店舗の営業率は高く、メインの狭い通り以外にも店が広がっている。線路は南に通っているのだが駅は五百メートルほど離れていて、その割に健闘していると言って良い。もちろん二階建ての店がほとんどで、コッペパンの店やレコードを置く店などレトロな雰囲気も盛りだくさん。スーパーとも両立している。商店街入口の神社横の広場には、いつもお年寄りがたまってのんびりしている。
と、以上淡々と振り返ってみた。この日歩いた、東向島、鐘ヶ淵、そして京島という墨田区北部のあたりは、いわゆる旧東京市ではない。寺島・隅田・吾嬬の三町が向島区となり、さらに本所区と合併して墨田区となったものだ。ここが今や東京全域で一番というくらい、古い町並みを残している。僕もその点ではとても楽しませてもらっているし、この地域の散策をひとに薦めることもある。が、現役の「街」として元気かというと、そうでもない。それはやはり、街の拠点を持てていない弱さだろうと思うし、それを跳ね返すには相当なパワーが必要だと思う。
私娼窟の名残が味わえる鳩の街、古い家屋が迷路のような路地に集まる鐘ヶ淵、現役で頑張る橘の商店街、どれも見所はある。しかしレトロさの興奮を抑えて冷静に見れば、たまには歩きに行こうと思える街ではあるけれど、それ以上ではない。せっかく魅力のある街並みを維持し人もたくさん住んでいるのに、商業地としての魅力が乏しいのは惜しいと思う。現代に合わせた店舗の再利用を進めたり、もう少しさまざまな人に見てもらえるような売りを作ってもいいと思う。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その016 谷底、谷底、たまに尾根
その016 谷底、谷底、たまに尾根 (2005年10月31日歩行)
日曜日を挟み、この日は快晴。歩き始めてから二十日が経過した。体調がいいのだけはありがたい。日曜はネットの知り合いとカラオケに行った。久しぶりのカラオケだった。歌うのは大好きなのだが、近くには行ってくれる相手がいないのだ。ここのところ歩いてばかりで他人と会話する機会も乏しく、思っていた以上に声が出なかった。ちなみに僕はほぼ八十年代以前の曲しか歌えない。
さて、今日は当初は九品仏から等々力にかけての東急大井町線を歩く予定にしていたが、前日に地図を見て池上線のほうへ変更した。深い理由はない。なんとなくだ。
新代田駅からバスで大田区の山王・馬込に向かった。新代田から大森というバス路線は、南北移動に便利なのでたまに利用している。東京には意外と長距離の路線バスがあり、工夫次第では散策のアプローチに使える。
馬込銀座という交差点があり、そこから谷沿いに商店街がある。二階建て店舗の並ぶ、ごくありふれた商店街の風景だが、人通りは見られない。地図によれば、昭和初期までに低地が宅地化された地域のようで、それまでは谷戸田、つまり谷地の田んぼだったらしい。現在はそんな面影はないのだが、商店街としてもまた、賑わった面影があまり感じられない。移り変わりはあまりに早い。
東京に限ったことではないが、だいたい昭和三十年代くらいまでに成立していた商店街はどこも賑わっていた期間がそれなりに長くあったのだろう。また、人口が劇的に増加し買い物する場所が不足してきて、農地の残る低地など土地の取りやすい場所に新たな商店街ができたことも想像できる。でも、都心のビル街の地域を除いて、東京の人口は減っていないはずだ。利用客のいない駅前が寂れる地方都市と異なり、周囲が住宅密集地で鉄道利用者も多いのだから、日常的な人の出入りだってある。なのに多くの商店街が衰退しきっている。これが東京の不思議な一面だと思う。
やや離れているので歩いて行くかどうか迷ったが、まだ元気だったこともあり、北馬込のまっすぐな商店街を通り、そのまま長原駅前に出た。このあたりは谷ではなく、尾根、台地上にあたる。長原の商店街は先日の野方に似ていて、駅を中心にした街路に店が広がっていて、人通りと賑わいがある。路面からすぐに切符売り場がありその横が改札という、駅のコンパクトな構造も良い。僕は駅の通路をだらだら歩かされるのはあまり好きではない。あれに都会の風情を感じられれば一流の都会人なのかもしれないが……。
いったん電車に乗り、雪が谷大塚駅へ移動する。今は大通りになっているが、中原街道に沿った比較的古くからの集落が大塚だ。「雪が谷大塚」という駅名はなんだかお洒落だが、商店はかなり昭和レトロなものが多い。駅前のスーパーすら、ちょっと黒ずんだ趣のあるビルに収まっている。駅東側の商店街の路面はすべてカラーブロックで舗装されて明るく、街灯には凝ったモニュメントが添えられていてリッチさが感じられる。田園調布のとなり町とも言えるし、駅前からは自由が丘に続く自由通りが始まる。独自のブランドを築くまでは至らないが、近隣の特徴的な街のにおいをほんの少しだけ感じる。
歩いて一駅北の石川台駅へ向かう。呑川岸の低地とそれに沿った急な傾斜地に拓かれた街だ。ここは距離の長い商店街ではあるのだが、普通は出入口だけにある大きな商店街アーチが交差点ごとにいくつも設置されている。商売とはあまり関係なさそうだが、これだけあるとさすがに印象的だ。訪ねる前は、名前からして住宅前の近代的な商店街かと思っていたが、やはりここも昭和のだ。盛衰はジェットコースターのようでも、商店街の建物はそうそう一気には変わっていかない。
商店街の左右の街路に入ってみると、ちょっと高級な住宅街なのか、大きな邸宅もいくつか見られる。そして、まっすぐな道に引かれた白線には土地のアップダウンが綺麗に現れていた。ちょっと街を見ただけでは高いも低いも区別がないと思えるが、商店のある場所には土地の高低が割とハッキリと関係している。
さらに一駅北の洗足池、その南の集落の小池の商店街を歩き、変更した予定をすべてこなして帰還した。
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日曜日を挟み、この日は快晴。歩き始めてから二十日が経過した。体調がいいのだけはありがたい。日曜はネットの知り合いとカラオケに行った。久しぶりのカラオケだった。歌うのは大好きなのだが、近くには行ってくれる相手がいないのだ。ここのところ歩いてばかりで他人と会話する機会も乏しく、思っていた以上に声が出なかった。ちなみに僕はほぼ八十年代以前の曲しか歌えない。
さて、今日は当初は九品仏から等々力にかけての東急大井町線を歩く予定にしていたが、前日に地図を見て池上線のほうへ変更した。深い理由はない。なんとなくだ。
新代田駅からバスで大田区の山王・馬込に向かった。新代田から大森というバス路線は、南北移動に便利なのでたまに利用している。東京には意外と長距離の路線バスがあり、工夫次第では散策のアプローチに使える。
馬込銀座という交差点があり、そこから谷沿いに商店街がある。二階建て店舗の並ぶ、ごくありふれた商店街の風景だが、人通りは見られない。地図によれば、昭和初期までに低地が宅地化された地域のようで、それまでは谷戸田、つまり谷地の田んぼだったらしい。現在はそんな面影はないのだが、商店街としてもまた、賑わった面影があまり感じられない。移り変わりはあまりに早い。
東京に限ったことではないが、だいたい昭和三十年代くらいまでに成立していた商店街はどこも賑わっていた期間がそれなりに長くあったのだろう。また、人口が劇的に増加し買い物する場所が不足してきて、農地の残る低地など土地の取りやすい場所に新たな商店街ができたことも想像できる。でも、都心のビル街の地域を除いて、東京の人口は減っていないはずだ。利用客のいない駅前が寂れる地方都市と異なり、周囲が住宅密集地で鉄道利用者も多いのだから、日常的な人の出入りだってある。なのに多くの商店街が衰退しきっている。これが東京の不思議な一面だと思う。
やや離れているので歩いて行くかどうか迷ったが、まだ元気だったこともあり、北馬込のまっすぐな商店街を通り、そのまま長原駅前に出た。このあたりは谷ではなく、尾根、台地上にあたる。長原の商店街は先日の野方に似ていて、駅を中心にした街路に店が広がっていて、人通りと賑わいがある。路面からすぐに切符売り場がありその横が改札という、駅のコンパクトな構造も良い。僕は駅の通路をだらだら歩かされるのはあまり好きではない。あれに都会の風情を感じられれば一流の都会人なのかもしれないが……。
いったん電車に乗り、雪が谷大塚駅へ移動する。今は大通りになっているが、中原街道に沿った比較的古くからの集落が大塚だ。「雪が谷大塚」という駅名はなんだかお洒落だが、商店はかなり昭和レトロなものが多い。駅前のスーパーすら、ちょっと黒ずんだ趣のあるビルに収まっている。駅東側の商店街の路面はすべてカラーブロックで舗装されて明るく、街灯には凝ったモニュメントが添えられていてリッチさが感じられる。田園調布のとなり町とも言えるし、駅前からは自由が丘に続く自由通りが始まる。独自のブランドを築くまでは至らないが、近隣の特徴的な街のにおいをほんの少しだけ感じる。
歩いて一駅北の石川台駅へ向かう。呑川岸の低地とそれに沿った急な傾斜地に拓かれた街だ。ここは距離の長い商店街ではあるのだが、普通は出入口だけにある大きな商店街アーチが交差点ごとにいくつも設置されている。商売とはあまり関係なさそうだが、これだけあるとさすがに印象的だ。訪ねる前は、名前からして住宅前の近代的な商店街かと思っていたが、やはりここも昭和のだ。盛衰はジェットコースターのようでも、商店街の建物はそうそう一気には変わっていかない。
商店街の左右の街路に入ってみると、ちょっと高級な住宅街なのか、大きな邸宅もいくつか見られる。そして、まっすぐな道に引かれた白線には土地のアップダウンが綺麗に現れていた。ちょっと街を見ただけでは高いも低いも区別がないと思えるが、商店のある場所には土地の高低が割とハッキリと関係している。
さらに一駅北の洗足池、その南の集落の小池の商店街を歩き、変更した予定をすべてこなして帰還した。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その015 一駅一商店会
その015 一駅一商店会 (2005年10月29日歩行)
昨日のように、同じ駅前で細かく商店会が分かれた場所は珍しくない。一方、駅前の商店会をひとつに統合してしまう場合もある。このほうが各種サービスはしやすいだろうし、利用者にとってもわかりやすい。今日はたまたま、そんな商店街を歩いた。
天気は曇り。雨はまだしばらく降りそうにない。いつものように京王線で新宿に出たあと、西武新宿駅まで歩く。池袋線と同じく、西武新宿線はほとんど使ったことがない。駅名を見ても場所のイメージが湧かない。停車駅をよく確認し、急行に乗って練馬区の上石神井駅へ向かう。
出口への階段からかなり遠いところのドアから降りた。電車がホームから遠ざかると、ものすごく静かだ。街の音がほとんどしない。ここは本当に急行停車駅なのだろうか。とりあえず駅前から繋がる商店街を見て回った。
上石神井には八つの通りの商店街があり、街灯もそれぞれの通りによって違っている。しかしその街灯の下には、共通の黄色い商店街旗が掲げられている。商店会はひとつに統一されているのだ。
それにしても昼間とはいえ、急行停車駅にしては妙に落ち着いている。悪く言うと華がない。庶民的な街だし駅利用客もそこそこ多いはずなのだがどこかエネルギーがなく、かといって後ろ向きになるほど寂れてもいない。ギラギラしたチェーン店は少ないが個人商店が売り声を出すという感じでもない。
などと静けさに浸っていると、たまたま中学生か高校生だかの帰る時間に当ってしまったようで、雰囲気が悪くなった。大きな声で何か言ってふざけながら、僕のまわりをウロチョロされる。僕はどうもああいう、中学でも高校でも大学でも、うるさい学生というのが好きではない。道に広がって歩かれるのも嫌だ。すれ違う時にこちらが車道や植え込みに出させられたりもする。なぜ縦になれないのかと思う。これは自分がその年代だった頃から釈然としない。堂々としているのはかまわないが、学生はマナーが良いほうが断然格好良い。
次第に雲行きが怪しくなってきた。区境を越えて杉並区に移動し、東隣の上井草の駅前を早足で歩く。ここの商店街は店は少なくないのだが、狭い二車線の道に沿っているので、ちょっと歩きづらい。一車線以外の街路の商店街はどこも寂れがちなものだが、特に歩道の取れない二車線道路は商店街としては辛いと思う。ぶらぶらと買い物しようという雰囲気にはどうしてもなれない。
ここにはアニメタウンと書かれた商店街旗がぶら下がっている。確かに杉並はアニメの制作会社が多いとは聞くが、アニメタウンというほど推しているようにも見えない。こういうのは徹底的にやらないと面白味が出ない。ちょっとロボットとかウルトラな人とかを入り込ませた程度では、半端なのだ。僕も高校時代まではけっこうアニメに詳しかったのだが、上京して自分が表現する側を目指した時にスッパリと足抜けしてしまった。商店街も何かを表現する側だと考えれば、他人の作ったものをちょっとやそっと取り込んでもしょうがないと思う。過剰なほどそれに詳しくなるか、オリジナルなものをやるかしなければ目立てない。
雨が降り出さないことを祈りつつ、また電車に乗って都立家政駅へ向かった。ここは駅と交差する商店街がひとつだけの、わかりやすい構造の街だ。街灯には「家政」とのシャレと思われる火星人っぽいキャラクターの旗が下がっている。これは割と好きだ。商店街そのものも、一車線の街路に展開していて歩きやすい。古い店も新しい店も、この通りに仲良く軒を並べている。都心に少し近づいたせいか、上石神井よりちょっとお洒落な店もある。
大きくない駅前では、基本的にこの「ひとつの駅にひとつのメインストリート」という造りがしっくりくるし、何より暮らしやすそうだと僕は思う。そもそも商店街とは集積しているから便利なのだ。
ひとつ新宿寄りの野方駅もまた、短いアーケードを除いた五本の通りがひとつの大きな商店会となっている。各駅停車しか停まらない地味な駅だが、上石神井よりもむしろ賑わっていて、どの路地も人通りが多い。もちろん主力は食品の店だ。飲食店も意外と多い。この地域は平行して走るような路地がなく、人の通り道が限定されるのが功を奏しているのだろうか。今日まで歩いてきた中でも濃い商店街のひとつだ。
半ば予期していたが、空がどんどん暗くなってきた。ここで大人しく退散だ。どうも天候にはいまひとつ恵まれないが、こればかりは仕方ない。雨が本降りになる前に何とか帰宅できた。
一国一城令ではないが、一駅に一商店会というは、僕は賛成だ。会を運営するほうは大変だとは思うが、利用者にとっては何よりも存在がわかりやすく、買い物スタンプなどのサービスもより使いやすくなる。そして、あまり商店街の範囲を広くしすぎないことも大切だと思う。店が散らばって薄っぺらくなるよりも、濃密な商店街を目指したほうが街はきっと元気になる。
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昨日のように、同じ駅前で細かく商店会が分かれた場所は珍しくない。一方、駅前の商店会をひとつに統合してしまう場合もある。このほうが各種サービスはしやすいだろうし、利用者にとってもわかりやすい。今日はたまたま、そんな商店街を歩いた。
天気は曇り。雨はまだしばらく降りそうにない。いつものように京王線で新宿に出たあと、西武新宿駅まで歩く。池袋線と同じく、西武新宿線はほとんど使ったことがない。駅名を見ても場所のイメージが湧かない。停車駅をよく確認し、急行に乗って練馬区の上石神井駅へ向かう。
出口への階段からかなり遠いところのドアから降りた。電車がホームから遠ざかると、ものすごく静かだ。街の音がほとんどしない。ここは本当に急行停車駅なのだろうか。とりあえず駅前から繋がる商店街を見て回った。
上石神井には八つの通りの商店街があり、街灯もそれぞれの通りによって違っている。しかしその街灯の下には、共通の黄色い商店街旗が掲げられている。商店会はひとつに統一されているのだ。
それにしても昼間とはいえ、急行停車駅にしては妙に落ち着いている。悪く言うと華がない。庶民的な街だし駅利用客もそこそこ多いはずなのだがどこかエネルギーがなく、かといって後ろ向きになるほど寂れてもいない。ギラギラしたチェーン店は少ないが個人商店が売り声を出すという感じでもない。
などと静けさに浸っていると、たまたま中学生か高校生だかの帰る時間に当ってしまったようで、雰囲気が悪くなった。大きな声で何か言ってふざけながら、僕のまわりをウロチョロされる。僕はどうもああいう、中学でも高校でも大学でも、うるさい学生というのが好きではない。道に広がって歩かれるのも嫌だ。すれ違う時にこちらが車道や植え込みに出させられたりもする。なぜ縦になれないのかと思う。これは自分がその年代だった頃から釈然としない。堂々としているのはかまわないが、学生はマナーが良いほうが断然格好良い。
次第に雲行きが怪しくなってきた。区境を越えて杉並区に移動し、東隣の上井草の駅前を早足で歩く。ここの商店街は店は少なくないのだが、狭い二車線の道に沿っているので、ちょっと歩きづらい。一車線以外の街路の商店街はどこも寂れがちなものだが、特に歩道の取れない二車線道路は商店街としては辛いと思う。ぶらぶらと買い物しようという雰囲気にはどうしてもなれない。
ここにはアニメタウンと書かれた商店街旗がぶら下がっている。確かに杉並はアニメの制作会社が多いとは聞くが、アニメタウンというほど推しているようにも見えない。こういうのは徹底的にやらないと面白味が出ない。ちょっとロボットとかウルトラな人とかを入り込ませた程度では、半端なのだ。僕も高校時代まではけっこうアニメに詳しかったのだが、上京して自分が表現する側を目指した時にスッパリと足抜けしてしまった。商店街も何かを表現する側だと考えれば、他人の作ったものをちょっとやそっと取り込んでもしょうがないと思う。過剰なほどそれに詳しくなるか、オリジナルなものをやるかしなければ目立てない。
雨が降り出さないことを祈りつつ、また電車に乗って都立家政駅へ向かった。ここは駅と交差する商店街がひとつだけの、わかりやすい構造の街だ。街灯には「家政」とのシャレと思われる火星人っぽいキャラクターの旗が下がっている。これは割と好きだ。商店街そのものも、一車線の街路に展開していて歩きやすい。古い店も新しい店も、この通りに仲良く軒を並べている。都心に少し近づいたせいか、上石神井よりちょっとお洒落な店もある。
大きくない駅前では、基本的にこの「ひとつの駅にひとつのメインストリート」という造りがしっくりくるし、何より暮らしやすそうだと僕は思う。そもそも商店街とは集積しているから便利なのだ。
ひとつ新宿寄りの野方駅もまた、短いアーケードを除いた五本の通りがひとつの大きな商店会となっている。各駅停車しか停まらない地味な駅だが、上石神井よりもむしろ賑わっていて、どの路地も人通りが多い。もちろん主力は食品の店だ。飲食店も意外と多い。この地域は平行して走るような路地がなく、人の通り道が限定されるのが功を奏しているのだろうか。今日まで歩いてきた中でも濃い商店街のひとつだ。
半ば予期していたが、空がどんどん暗くなってきた。ここで大人しく退散だ。どうも天候にはいまひとつ恵まれないが、こればかりは仕方ない。雨が本降りになる前に何とか帰宅できた。
一国一城令ではないが、一駅に一商店会というは、僕は賛成だ。会を運営するほうは大変だとは思うが、利用者にとっては何よりも存在がわかりやすく、買い物スタンプなどのサービスもより使いやすくなる。そして、あまり商店街の範囲を広くしすぎないことも大切だと思う。店が散らばって薄っぺらくなるよりも、濃密な商店街を目指したほうが街はきっと元気になる。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その014 商店街の明るさ
その014 商店街の明るさ (2005年10月28日歩行)
ようやく晴天になったこの日は、葛飾区の四ツ木・立石・堀切・お花茶屋を歩く。葛飾区は東京ではかなり地味な扱いをされている。『男はつらいよ』と『こち亀』がなかったらどうなっていただろう。
立石(本田)・金町・新宿・奥戸・水元・亀青・南綾瀬の六町村が合併したのが葛飾区だが、このバラバラさが葛飾をぼんやりさせているとも言える。合併して何十年も経ってなお、無理にくっつけた感じがするのだ。もともと東京の区というのは「街の中心と周辺」というまとまりを示す性質のものではないので、僕は「区のイメージ」みたいなものをあまり持っていない。今回歩く地域に関しても、それぞれの街という捉え方はしているが、葛飾だからどうのこうの、という印象はない。
※最初に書いておくけれど、この日は広い地域に商店会が細かく分かれて存在している地域を歩いている。そして以前書いたとおり、僕はまだこの時点では商店会単位での事前把握はしていなかったため、いくつか歩き逃している。知っている人から見て、当然今回触れるべきであろう場所が文中に出て来なかったとしても、それは後からまた歩くことになるので、いまは見逃してほしい。
お昼前に京成押上線四ツ木駅に到着した。降車する人はあまりいなかった。駅の南が渋江の商店街、北側が四ツ木の商店街となっている。四ツ木はなぎらけんいちの歌でしか知らない。でも少し歩いただけで、古い看板を掲げた商店や銅板張りの建物の多さに驚く。四ツ木や渋江は明治時代以前からの村落だから、昭和になって人が住みだした街とは格が違う。同時に、どこか「地方都市っぽさ」も味わうことができる。そんな格は東京においてはまったく重要ではないかもしれないが、他所と均一な感じがしないというのは良いことだと思う。
渋江の商店街の精肉店で、昼限定で売っている弁当を買った。デミグラスソースのかかったミートボール四個とロールキャベツひとつ、小型コロッケ半分、そしてオムライスが丸い容器に入っている。かなり豪華だ。なかなか格好良いお兄さんが店先で手売りしていて、電子レンジもあり、缶のお茶もサービスしてくれる。これで四百七十二円だった。オムライスは中にちゃんとチキンライスが入っていた。焼肉と漬物とご飯を詰めただけというようなよくある弁当ではなく、ちゃんと手が込んでいる。この弁当は全ての商店街歩きの中でもっとも思い出に残っている。
児童公園のようなところで弁当を食べて、立石駅へ向かった。平日に児童公園で男が一人で弁当食ってるというのは怪しいものだが、通報されたことはない。
立石は狭い仲見世アーケードと広い駅通りアーケードがあり、周囲も通りごとに商店会が異なる。あとで調べたところ、その数は十を超える。こうなってくると商店会ごとにブログ記事を書くのが面倒になる。風景としては申し分ないのだが、それを切り分けてなんになるのか、という思いがするのだ。だから帰ってから記事にする時には「北口」「南口」の記事しか作らなかった。
※後にこれを改め、書きなおすことになる。資料としてわかりやすくするためというのはもちろんあったのだが、もっと大きな繁華街を歩く時には膨大すぎて書けなくなってしまうのだ。たとえば「池袋駅東口」を一記事でまとめるのは僕には無理だ。ただ、それをやるために、立石や堀切にはもう一度歩きに行く必要が出た。商店会があるのが判明したが未歩行の通りがあったり、写真を撮り忘れている場所があったりするからだ。本当にこの部分については面倒だった。気に入ったところだけ載せる方式にすればよかった、と何度も思った。
立石はさまざまな風景がありすぎて描写しづらいしあまりに長くなるので、いまはひとつひとつの通りのことを書くのはやめておく。
地図好きとしてひとつ気になるのは、仲見世アーケード内の店舗がネットの地図に描かれておらず、道路になっている点だ。屋台のような扱いなのか、それとも航空写真ではアーケード全体を道路と見做してしまってその下の建物を描かなかったのだろうか。まさか道路敷の不法占拠というわけではないだろうけれど、どういう扱いのものなのか、不思議に思う。あまり聞いてはいけないことなのかもしれないが。
立石を離れて北上し、京成本線の堀切菖蒲園駅を歩行する。青砥からこちら側の京成本線の開通は昭和に入ってからで、立石など押上線側よりも遅い。明治期の地図で見ると、人がほとんど住んでいない。駅ができてからの宅地だと言える。菖蒲園は江戸の頃からあり、昭和初期には複数の菖蒲園があったが、今は駅からかなり南に離れた堀切園だけになっている。この堀切園のあたりが古くからの集落なのだが、商店街はない。
堀切菖蒲園駅周辺もまた商店会の多い地域だ。しかし駅のすぐ近くを除いてはどこもさほど賑わっていない。雰囲気もどこか暗い。近年は駅の乗降客そのものも減っているようだ。二本ある大通り沿いもマンションは少なく、人口を確保できる公営の集合住宅も建設されてこなかった。昭和期に一気に住宅で埋まってしまったのだろうか。
それゆえに、歩くと古き良き住宅街の趣があるのだが、人通りの割に商業地が広すぎることもわかる。寂れたまま放置するよりは、もう少しどこかの通りに拠点性を持たせたほうが良さそうなのだが……。うそ臭くてもいいから、救いのある明るさが欲しくなってしまう。水路の上に建てられたような店舗もあり、権利関係も気になるところだ。
堀切七丁目の水路跡に沿って展開されている商店街を経て、最後はお花茶屋駅へ向かう。お花茶屋は東京の駅名・地名ではかなりユニークな部類だが、ほとんどの都民にとって訪れる機会がない場所だと思う。
区画整理された宅地内にあるお花茶屋駅北側の商店街は、今日ここまで歩いてきた商店街と比べると明るい雰囲気がある。カラーブロック舗装でまっすぐな広い街路、比較的新しい建物、ひとつの道に凝縮された商店。堀切にはなかった拠点性が、ここには見られる気がした。大きな商業地でなくても、昭和的なクラシックさがなくても、中心地が明るく歩きやすいというのはそれだけで良いことだ。
「明るさ」というのは、街づくりにおいて実現が難しいものなのだろうか。ボロボロになったテントや旗、廃屋、文字の読めなくなった看板、閉まりっぱなしの無味乾燥なシャッター、やっているのかどうかよくわからない店、余所者をいぶかしむ店主。そういう暗い要素がなかなか改善されないのはどうしてなのか。歴史に裏打ちされた文化やノスタルジーに溢れた建物はもちろんあっていいのだが、「壊れかけ」や「やる気がない」のは懐かしさでもなんでもない。でもそのままにされている。なぜか。これは文句ではなく、純粋な疑問だ。
街、特に商業地というのは明るいほうが喜ばしいことが多いはずなのだが、商店街の多くは、自ら暗闇に半分足を突っ込んだままそこに立ち尽くしているようだ。こう感じるのは僕だけだろうか。たくさんの商店街を歩けば、その理由が見えてくるものなのだろうか。あるいは、自分が店を持ちそれを潰してしまうまでわからないことなのかもしれない。
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ようやく晴天になったこの日は、葛飾区の四ツ木・立石・堀切・お花茶屋を歩く。葛飾区は東京ではかなり地味な扱いをされている。『男はつらいよ』と『こち亀』がなかったらどうなっていただろう。
立石(本田)・金町・新宿・奥戸・水元・亀青・南綾瀬の六町村が合併したのが葛飾区だが、このバラバラさが葛飾をぼんやりさせているとも言える。合併して何十年も経ってなお、無理にくっつけた感じがするのだ。もともと東京の区というのは「街の中心と周辺」というまとまりを示す性質のものではないので、僕は「区のイメージ」みたいなものをあまり持っていない。今回歩く地域に関しても、それぞれの街という捉え方はしているが、葛飾だからどうのこうの、という印象はない。
※最初に書いておくけれど、この日は広い地域に商店会が細かく分かれて存在している地域を歩いている。そして以前書いたとおり、僕はまだこの時点では商店会単位での事前把握はしていなかったため、いくつか歩き逃している。知っている人から見て、当然今回触れるべきであろう場所が文中に出て来なかったとしても、それは後からまた歩くことになるので、いまは見逃してほしい。
お昼前に京成押上線四ツ木駅に到着した。降車する人はあまりいなかった。駅の南が渋江の商店街、北側が四ツ木の商店街となっている。四ツ木はなぎらけんいちの歌でしか知らない。でも少し歩いただけで、古い看板を掲げた商店や銅板張りの建物の多さに驚く。四ツ木や渋江は明治時代以前からの村落だから、昭和になって人が住みだした街とは格が違う。同時に、どこか「地方都市っぽさ」も味わうことができる。そんな格は東京においてはまったく重要ではないかもしれないが、他所と均一な感じがしないというのは良いことだと思う。
渋江の商店街の精肉店で、昼限定で売っている弁当を買った。デミグラスソースのかかったミートボール四個とロールキャベツひとつ、小型コロッケ半分、そしてオムライスが丸い容器に入っている。かなり豪華だ。なかなか格好良いお兄さんが店先で手売りしていて、電子レンジもあり、缶のお茶もサービスしてくれる。これで四百七十二円だった。オムライスは中にちゃんとチキンライスが入っていた。焼肉と漬物とご飯を詰めただけというようなよくある弁当ではなく、ちゃんと手が込んでいる。この弁当は全ての商店街歩きの中でもっとも思い出に残っている。
児童公園のようなところで弁当を食べて、立石駅へ向かった。平日に児童公園で男が一人で弁当食ってるというのは怪しいものだが、通報されたことはない。
立石は狭い仲見世アーケードと広い駅通りアーケードがあり、周囲も通りごとに商店会が異なる。あとで調べたところ、その数は十を超える。こうなってくると商店会ごとにブログ記事を書くのが面倒になる。風景としては申し分ないのだが、それを切り分けてなんになるのか、という思いがするのだ。だから帰ってから記事にする時には「北口」「南口」の記事しか作らなかった。
※後にこれを改め、書きなおすことになる。資料としてわかりやすくするためというのはもちろんあったのだが、もっと大きな繁華街を歩く時には膨大すぎて書けなくなってしまうのだ。たとえば「池袋駅東口」を一記事でまとめるのは僕には無理だ。ただ、それをやるために、立石や堀切にはもう一度歩きに行く必要が出た。商店会があるのが判明したが未歩行の通りがあったり、写真を撮り忘れている場所があったりするからだ。本当にこの部分については面倒だった。気に入ったところだけ載せる方式にすればよかった、と何度も思った。
立石はさまざまな風景がありすぎて描写しづらいしあまりに長くなるので、いまはひとつひとつの通りのことを書くのはやめておく。
地図好きとしてひとつ気になるのは、仲見世アーケード内の店舗がネットの地図に描かれておらず、道路になっている点だ。屋台のような扱いなのか、それとも航空写真ではアーケード全体を道路と見做してしまってその下の建物を描かなかったのだろうか。まさか道路敷の不法占拠というわけではないだろうけれど、どういう扱いのものなのか、不思議に思う。あまり聞いてはいけないことなのかもしれないが。
立石を離れて北上し、京成本線の堀切菖蒲園駅を歩行する。青砥からこちら側の京成本線の開通は昭和に入ってからで、立石など押上線側よりも遅い。明治期の地図で見ると、人がほとんど住んでいない。駅ができてからの宅地だと言える。菖蒲園は江戸の頃からあり、昭和初期には複数の菖蒲園があったが、今は駅からかなり南に離れた堀切園だけになっている。この堀切園のあたりが古くからの集落なのだが、商店街はない。
堀切菖蒲園駅周辺もまた商店会の多い地域だ。しかし駅のすぐ近くを除いてはどこもさほど賑わっていない。雰囲気もどこか暗い。近年は駅の乗降客そのものも減っているようだ。二本ある大通り沿いもマンションは少なく、人口を確保できる公営の集合住宅も建設されてこなかった。昭和期に一気に住宅で埋まってしまったのだろうか。
それゆえに、歩くと古き良き住宅街の趣があるのだが、人通りの割に商業地が広すぎることもわかる。寂れたまま放置するよりは、もう少しどこかの通りに拠点性を持たせたほうが良さそうなのだが……。うそ臭くてもいいから、救いのある明るさが欲しくなってしまう。水路の上に建てられたような店舗もあり、権利関係も気になるところだ。
堀切七丁目の水路跡に沿って展開されている商店街を経て、最後はお花茶屋駅へ向かう。お花茶屋は東京の駅名・地名ではかなりユニークな部類だが、ほとんどの都民にとって訪れる機会がない場所だと思う。
区画整理された宅地内にあるお花茶屋駅北側の商店街は、今日ここまで歩いてきた商店街と比べると明るい雰囲気がある。カラーブロック舗装でまっすぐな広い街路、比較的新しい建物、ひとつの道に凝縮された商店。堀切にはなかった拠点性が、ここには見られる気がした。大きな商業地でなくても、昭和的なクラシックさがなくても、中心地が明るく歩きやすいというのはそれだけで良いことだ。
「明るさ」というのは、街づくりにおいて実現が難しいものなのだろうか。ボロボロになったテントや旗、廃屋、文字の読めなくなった看板、閉まりっぱなしの無味乾燥なシャッター、やっているのかどうかよくわからない店、余所者をいぶかしむ店主。そういう暗い要素がなかなか改善されないのはどうしてなのか。歴史に裏打ちされた文化やノスタルジーに溢れた建物はもちろんあっていいのだが、「壊れかけ」や「やる気がない」のは懐かしさでもなんでもない。でもそのままにされている。なぜか。これは文句ではなく、純粋な疑問だ。
街、特に商業地というのは明るいほうが喜ばしいことが多いはずなのだが、商店街の多くは、自ら暗闇に半分足を突っ込んだままそこに立ち尽くしているようだ。こう感じるのは僕だけだろうか。たくさんの商店街を歩けば、その理由が見えてくるものなのだろうか。あるいは、自分が店を持ちそれを潰してしまうまでわからないことなのかもしれない。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その013 東京、長崎
その013 東京、長崎 (2005年10月26日歩行)
今日は東長崎と椎名町を歩く。どちらも西武池袋線の駅で、各駅停車の列車しか停まらない。東長崎の「東」は昨日の東松原の「東」とは違い、長崎県の長崎駅との区別のために付けられたものだそうだ。間違える人はそうそういないと思うのだが。
この歩行時点で八王子に住んでいた僕にとって、西武線はなかなか乗る機会のない路線だ。都心に向かうのには京王線か中央線があればいい、川越方面へは八高線、または東武東上線がある。所沢や飯能には特に用がない。ということで、この沿線の風景はまったくと言っていいほど知らない。
交通費の節約のために、新宿からバスで現地に向かった。空はかなり暗く、いつ雨が落ちてくるかという気配だが、とりあえず早足で歩行を開始した。
昨日に続いて東長崎もまた、駅の北も南も路地と家で埋め尽くされたような街だ。バスが走る目白通りから駅までは四〇〇メートルほどあるが、二車線以上の道路がまったく見当たらない。そして、ここという商業的な中心地がなく、ほうぼうに店が続いていく。生鮮食品・惣菜・焼き鳥などの店は多いが、それ以外の雑貨の店は減っているようだ。スーパーも二軒ある。
僕はこの地域には、なぜだか城下町を感じてしまう。そんなに綺麗な区画ではないのだが、それぞれの街路になんとなく商店が広がり、建物はせいぜい三階建てだがみっちりと埋まり、その中に古い商店を多く見かけるせいだろうか。路地ごとに「鉄砲町」とか「鍛冶町」とかいう系統の名前をつけたくなる。
東長崎から徒歩で椎名町に移動した。やはり小雨が降りはじめた。
椎名町は東長崎から東に一駅、その次が池袋となる。つまり都心ターミナルから数えて一駅目という位置にある。その割に、ここもまた低層住宅が多い路地中心の街だ。
もともと椎名町というのは駅から五〇〇メートルほど南の、今の目白通り沿いのことを指した地名だ。それがいったんは町名として広い地域で用いられ、しかし昭和中期以降は町名そのものが消え、駅名だけが離れた場所に残ったのだそうだ。今の町名は長崎または南長崎だが、駅前地域の通称としては椎名町が使われている。
この椎名町の商店街は駅の北側のみにあり、決して華やかではない。しかし、短い全蓋型アーケード街、やや広く自転車の行き交う商店街、脇通りの商店街と、それぞれに個性と役割分担のようなものがある。そして北側の要町方向に向けては古い道筋に複数の商店会が続いていき、地図で見た限りでは池袋までたどることができるようだ。全体の雰囲気は東長崎と似ていて、スーパーもあれば惣菜屋もある。食という点ではまだ利用価値のある商店街だ。
駅のすぐ東の環七通りを越えると池袋町域となる。環七が少し高い位置を通っていて、まさに池袋との物理的な壁のように、ドーンと横たわっているように見える。もっとも池袋という名ではあっても、池袋駅のすぐ南までさらに狭小な家屋が密集する住宅地が続いているので、椎名町と風景に大差はない。これは西武線に乗って高架上から見ると、なかなか壮観だ。
椎名町の北の地蔵堂通りまで歩いたが、次第に雨脚が強くなってきたため、予定を残してここで歩行を打ち切った。混同するわけではないが、長崎は今日も雨だったのだ。
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今日は東長崎と椎名町を歩く。どちらも西武池袋線の駅で、各駅停車の列車しか停まらない。東長崎の「東」は昨日の東松原の「東」とは違い、長崎県の長崎駅との区別のために付けられたものだそうだ。間違える人はそうそういないと思うのだが。
この歩行時点で八王子に住んでいた僕にとって、西武線はなかなか乗る機会のない路線だ。都心に向かうのには京王線か中央線があればいい、川越方面へは八高線、または東武東上線がある。所沢や飯能には特に用がない。ということで、この沿線の風景はまったくと言っていいほど知らない。
交通費の節約のために、新宿からバスで現地に向かった。空はかなり暗く、いつ雨が落ちてくるかという気配だが、とりあえず早足で歩行を開始した。
昨日に続いて東長崎もまた、駅の北も南も路地と家で埋め尽くされたような街だ。バスが走る目白通りから駅までは四〇〇メートルほどあるが、二車線以上の道路がまったく見当たらない。そして、ここという商業的な中心地がなく、ほうぼうに店が続いていく。生鮮食品・惣菜・焼き鳥などの店は多いが、それ以外の雑貨の店は減っているようだ。スーパーも二軒ある。
僕はこの地域には、なぜだか城下町を感じてしまう。そんなに綺麗な区画ではないのだが、それぞれの街路になんとなく商店が広がり、建物はせいぜい三階建てだがみっちりと埋まり、その中に古い商店を多く見かけるせいだろうか。路地ごとに「鉄砲町」とか「鍛冶町」とかいう系統の名前をつけたくなる。
東長崎から徒歩で椎名町に移動した。やはり小雨が降りはじめた。
椎名町は東長崎から東に一駅、その次が池袋となる。つまり都心ターミナルから数えて一駅目という位置にある。その割に、ここもまた低層住宅が多い路地中心の街だ。
もともと椎名町というのは駅から五〇〇メートルほど南の、今の目白通り沿いのことを指した地名だ。それがいったんは町名として広い地域で用いられ、しかし昭和中期以降は町名そのものが消え、駅名だけが離れた場所に残ったのだそうだ。今の町名は長崎または南長崎だが、駅前地域の通称としては椎名町が使われている。
この椎名町の商店街は駅の北側のみにあり、決して華やかではない。しかし、短い全蓋型アーケード街、やや広く自転車の行き交う商店街、脇通りの商店街と、それぞれに個性と役割分担のようなものがある。そして北側の要町方向に向けては古い道筋に複数の商店会が続いていき、地図で見た限りでは池袋までたどることができるようだ。全体の雰囲気は東長崎と似ていて、スーパーもあれば惣菜屋もある。食という点ではまだ利用価値のある商店街だ。
駅のすぐ東の環七通りを越えると池袋町域となる。環七が少し高い位置を通っていて、まさに池袋との物理的な壁のように、ドーンと横たわっているように見える。もっとも池袋という名ではあっても、池袋駅のすぐ南までさらに狭小な家屋が密集する住宅地が続いているので、椎名町と風景に大差はない。これは西武線に乗って高架上から見ると、なかなか壮観だ。
椎名町の北の地蔵堂通りまで歩いたが、次第に雨脚が強くなってきたため、予定を残してここで歩行を打ち切った。混同するわけではないが、長崎は今日も雨だったのだ。
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