東京都の商店街・商店群(主に東京23区内)を散歩し、様子を写真つきで簡単にまとめているブログです。 ※管理人=志歌寿ケイト(しかすけいと)
現在、東京の商店街・商店群の紹介記事を約2000件掲載している他、散策モデルコース図などもあります。
※各記事の内容は主観的なものであり、またその日付の時点のものですのでご了承ください。なくなった商店会も含んでいます。
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2005年01月01日
東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その012 掛け合わせ
その012 掛け合わせ (2005年10月25日歩行)
一昨日に歩いた地域に近いのだが、この日は杉並区の羽根木から和泉、そして中野区の南台あたりを歩こうと思う。
京王井の頭線の東松原で下車し、駅前の商店街を歩く。ここは見事なまでに二車線以上の広い道路がない。まっすぐな道さえ少ない。小規模マンションの下の店舗と古くからの二階建てとが混在し、いくつかのチェーン店を含めながら小さな賑わいを作り出している。古い店舗の中には、右から左へ商店名が書かれたものまであった。
羽根木地域に入り、人が住み着く前は農地の中の道路だったと思しき道筋を進む。一応商店街ということになってはいるが、営業店は少なく、人によっては「ただの住宅地」に見えるかもしれない。だが交番や郵便局、そして地蔵尊があるところから、地域の中心地であった名残を辛うじて感じることはできる。
北へ折れて代田橋駅前の二つの商店街を通過する。代田橋とは玉川上水に架かっていた、甲州街道の橋の名前である。この駅も東京二十三区内としては小さな駅だが、やはり小さな駅前商業地が形成されて、現在も利用されている。この駅前商業地の有無が、地方と東京の大きな違いのひとつではないかと思う。東京区内の地上駅で、こうした店舗の集まりが確認できないほうが珍しい。だが少し郊外へ行けば、鉄道と商業地が結びつかなくなってくる。もともと駅と市街地が離れていた場合もあるだろうし、駅を使う人が減ったということもあるだろう。少なくとも東京ではどの駅前でも「駅と街」の組み合わせで発達した時期があることを確認できる。
拡張された甲州街道を真新しい歩道橋で渡ると、和泉町域となる。ここには沖縄をテーマに活性化に取り組む商店街がある。と言っても建物を大々的に沖縄風に改装したとかではなく、各店舗のどこかに沖縄的な商品があるといった風だ。若干無理を感じる部分もあるが、まったく違う地域を取り込むこと自体は面白いし、やるならもっと徹底的にやってみてほしいと思う。
和泉には「和泉仲通り」という名がつけられた古くからの道があり、そこに三つの商店会が連なる。商店街の総延長は一キロにもなる。この通りは、南端にある古風な市場の建物、そして某建築家の手による奇抜な外観のマンションが二棟もあるという注目点は持っているのだが、商店街としては特に中心地もなく散漫で、これという感想は言いづらい。ただ、高い建物が少なくゆっくりとカーブを描く道を歩いていると、宅地になる以前ののんびりした農道的な雰囲気を感じないでもない。そしてこのあたりも、商店街とされている通り以外には広い主要道路がない。地方都市の旧道の風景のようでもあり、東京にいることを忘れてしまいそうになる。
神田川べりまで出てから、東の方南町のほうへと折れた。方南町は環七通りと方南通りの交わるところで、地下鉄丸ノ内線支線の終点でもある。他とは独立した、地域商業のひとつの極となっている。方南通り沿いにはアーケードつきの商店街があり、そこから入る街路にも個人商店を中心とした商業地が広がっている。マスコミで注目される街ではなく、大した施設もないから他所から人が多く来るわけでもないだろうが、それだけに生活感が味わえる。
方南町から南台へは旧道が続いている。少し西にある大宮八幡という大きな神社から、方南を通って幡ヶ谷方面へ続いた道のようだ。これをたどると、商店が断続的に続いている。その中で商店街として結実したのが、先日歩いた氷川仲通りと、これから歩く南台だ。
南台というのは町名としてはイメージ優先でつけられたもので、旧地名では前原と言ったあたりのようだ。商店街はやはり旧道のにおいが強く感じられ、もう廃業したような二階建ての看板建築の店舗が半分くらいを占め、そうでなければ三階建てのマンションで下が店舗というのが多い。かと思うと入口アーチや街灯デザインは近代的、路面の舗装もちょっと薄い色になっている。ちぐはぐな感じだが、それも東京らしくはあると思う。
景観の調和とか美化だとか、ほとんど言うだけ無駄な街だと僕は思っている。都区内で多くの人に美しいと認められる街並みを作れたら、それは大いに賞賛されるべきことだ。特にそれが多数の土地所有者がいる地区で成されたとしたら、神業としか言いようがない。
鉄道と古道、商店街と沖縄、新設備と旧建物、そういう掛け合わせが今の東京を成り立たせている。
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一昨日に歩いた地域に近いのだが、この日は杉並区の羽根木から和泉、そして中野区の南台あたりを歩こうと思う。
京王井の頭線の東松原で下車し、駅前の商店街を歩く。ここは見事なまでに二車線以上の広い道路がない。まっすぐな道さえ少ない。小規模マンションの下の店舗と古くからの二階建てとが混在し、いくつかのチェーン店を含めながら小さな賑わいを作り出している。古い店舗の中には、右から左へ商店名が書かれたものまであった。
羽根木地域に入り、人が住み着く前は農地の中の道路だったと思しき道筋を進む。一応商店街ということになってはいるが、営業店は少なく、人によっては「ただの住宅地」に見えるかもしれない。だが交番や郵便局、そして地蔵尊があるところから、地域の中心地であった名残を辛うじて感じることはできる。
北へ折れて代田橋駅前の二つの商店街を通過する。代田橋とは玉川上水に架かっていた、甲州街道の橋の名前である。この駅も東京二十三区内としては小さな駅だが、やはり小さな駅前商業地が形成されて、現在も利用されている。この駅前商業地の有無が、地方と東京の大きな違いのひとつではないかと思う。東京区内の地上駅で、こうした店舗の集まりが確認できないほうが珍しい。だが少し郊外へ行けば、鉄道と商業地が結びつかなくなってくる。もともと駅と市街地が離れていた場合もあるだろうし、駅を使う人が減ったということもあるだろう。少なくとも東京ではどの駅前でも「駅と街」の組み合わせで発達した時期があることを確認できる。
拡張された甲州街道を真新しい歩道橋で渡ると、和泉町域となる。ここには沖縄をテーマに活性化に取り組む商店街がある。と言っても建物を大々的に沖縄風に改装したとかではなく、各店舗のどこかに沖縄的な商品があるといった風だ。若干無理を感じる部分もあるが、まったく違う地域を取り込むこと自体は面白いし、やるならもっと徹底的にやってみてほしいと思う。
和泉には「和泉仲通り」という名がつけられた古くからの道があり、そこに三つの商店会が連なる。商店街の総延長は一キロにもなる。この通りは、南端にある古風な市場の建物、そして某建築家の手による奇抜な外観のマンションが二棟もあるという注目点は持っているのだが、商店街としては特に中心地もなく散漫で、これという感想は言いづらい。ただ、高い建物が少なくゆっくりとカーブを描く道を歩いていると、宅地になる以前ののんびりした農道的な雰囲気を感じないでもない。そしてこのあたりも、商店街とされている通り以外には広い主要道路がない。地方都市の旧道の風景のようでもあり、東京にいることを忘れてしまいそうになる。
神田川べりまで出てから、東の方南町のほうへと折れた。方南町は環七通りと方南通りの交わるところで、地下鉄丸ノ内線支線の終点でもある。他とは独立した、地域商業のひとつの極となっている。方南通り沿いにはアーケードつきの商店街があり、そこから入る街路にも個人商店を中心とした商業地が広がっている。マスコミで注目される街ではなく、大した施設もないから他所から人が多く来るわけでもないだろうが、それだけに生活感が味わえる。
方南町から南台へは旧道が続いている。少し西にある大宮八幡という大きな神社から、方南を通って幡ヶ谷方面へ続いた道のようだ。これをたどると、商店が断続的に続いている。その中で商店街として結実したのが、先日歩いた氷川仲通りと、これから歩く南台だ。
南台というのは町名としてはイメージ優先でつけられたもので、旧地名では前原と言ったあたりのようだ。商店街はやはり旧道のにおいが強く感じられ、もう廃業したような二階建ての看板建築の店舗が半分くらいを占め、そうでなければ三階建てのマンションで下が店舗というのが多い。かと思うと入口アーチや街灯デザインは近代的、路面の舗装もちょっと薄い色になっている。ちぐはぐな感じだが、それも東京らしくはあると思う。
景観の調和とか美化だとか、ほとんど言うだけ無駄な街だと僕は思っている。都区内で多くの人に美しいと認められる街並みを作れたら、それは大いに賞賛されるべきことだ。特にそれが多数の土地所有者がいる地区で成されたとしたら、神業としか言いようがない。
鉄道と古道、商店街と沖縄、新設備と旧建物、そういう掛け合わせが今の東京を成り立たせている。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その011 旧東海道
その011 旧東海道 (2005年10月24日歩行)
どこまで行っても道と家が続いている東京にも、よく見ると旧道というものがある。特に歴史が古い旧道、いわゆる旧街道には、商店街もまた多い。
東京二十三区内では、幅の広い新しい道に面した土地には、中心街ならオフィスビル、その他であればマンションが立ち並ぶ。これにはいくつか理由が考えられる。まず、大通り沿いは建築基準が緩いことが挙げられる。またひとつには、公共交通を利用する徒歩生活者がいまだ多く、駐車場を併設する大きな商業施設はあまり必要がないということもある。もちろん土地の価格自体が高いので、なるべくたくさんの人や企業に効率良くお金を出してもらえることを考慮した土地利用が自然と進むのもあるだろう。ということで、通りにはビル・マンションが増える。そして旧道にはもともとの古い商業地が残りやすい。
したがってこの旧道の商店街は、決して積極的な計画のもとにそこに位置しているわけではない、ということになる。都市化の成り行きでそうなったにすぎない。だから、駅前の商業地に比べればあっという間に寂れてしまう危険をはらんでいる。東京の街路における通行者の量は、主に駅出入口の有無と、そこへの通り道になっているかどうかによって決まる。いったんそのルートから外れてしまうと、盛り返すのは難しいように思うのだ。
今日は旧東海道を品川から南へ歩く。京浜急行の北品川駅の裏手から、旧東海道沿いの商店街が始まる。北品川は品川駅から南に一駅目で、余所者にはややこしく感じる命名だ。品川のオフィス街に近いということで、昼時にはそれなりに歩いている人がいるが、それも南下すると次第に減っていく。街道であることを意識した建物も見られるものの、全体にはこれまで歩いた低層建物を中心とした商店街とさほど違いはないように思う。ただ、どこもアーチには凝っていて、ちゃんと商店街の名前はわかる。
東海道には京急本線が沿っていて、駅が近づくと商店街も少し賑やかになる。新馬場駅の北口へ続く商店街は銅板張りの商店が複数あり、全体に旧街道側よりレトロな建物が多く、僕としてはこちらのほうが興奮する。一方、街道から入る横丁はひときわ狭く、生活感に溢れている。そして、猫の姿をよく見かける。こういう部分では、品川あたりはいまだに海沿いの街のかおりを残していると思う。
こぢんまりとした青物横丁の商店街を過ぎるといよいよ寂しくなる。鮫洲駅前になると、駅に出入りする狭い路地には小さな店舗が集まっていてまだ良いが、旧街道側はもう店がまばらで、半分は普通の住宅地と言って良い。相変わらず商店街の大きな入口アーチだけは古くて味わいがあるのだが、どうも古いアーチがそのままになっている商店街は内容が寂しい場合が多いような気がする。まあ、アーチなんて利用上はあってもなくてもいいとは思うが。
さらに南の立会川駅前は、第一京浜を渡る横断歩道を挟んで東西それぞれに、ごく短くごく狭い通りの商店街がある。広い道路を横断する必要のある西側の商店街は比較的新しい建物で、歩行者専用道路にされている上、移動式とみられる白い布の蛇腹アーケードが設置されているのが特徴的だ。駅に近い東側は小さな店舗だけで構成された駅前横丁的な商店街となっている。とにかくその幅員は狭く、しかしそれが正しく駅の出入り道路なのだ。昨日まで歩いてきた商店街とは違い、旧道に沿った古い街と鉄道駅という要素を組み合わせた街でしか味わえない風景だ。
ここでいったん商店街は途切れる。そして旧東海道は第一京浜と合流する。立会川駅から二キロほど南の平和島駅東側でふたたび、美原通りという商店街が出現する。
この美原通りや先ほどの品川のあたりでは、商店街としては一続きではあっても、商店会が途中で変わることがある。僕は商店街のありそうな場所を地図から選んで歩いているだけで、商店会の範囲を事前に把握しているわけではないから、こういう商店会の区切りは街灯などを参考に現地でメモを取る。
しかし悩ましいのは、こうした一続きの商店街をブログに載せる際にひとつの記事にするべきか、会ごとに細かく分けるかだ。店が続いているから商店街として意味があるとも言えるし、資料としては商店会単位に切れているほうがわかりやすい。これについては以降もしばらく答えを出せず、初期には地域によって掲載のしかたが多少異なっていた。結局は会単位に直すことにしたが、掲載する写真の足りない商店会が出る破目になった。
旧羽田道のちょっと寂しい商店街を経由して大森町駅に到達し、この日の歩行を終了した。旧東海道の商店街は、まだ健在と言えるとは思うのだけれど、やはり「駅」の集客の影響がより大きいということを感じた。たとえ各駅停車しか停まらない小駅でも、東京では一日に一万人くらいの乗降客がいることがざらにあるが、旧街道であるからといって観光に一日数千人も来るということはない。歴史だけでは地域商業の衰退は止められないし、旧街道全域を商業地にするのはいくらなんでも広すぎるだろう。今後どうなっていくのか、またたまには歩きに行きたい。
※二〇一二年現在、このあたりの旧東海道沿いの商店街アーチの多くはなくなっているか新調されている。
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どこまで行っても道と家が続いている東京にも、よく見ると旧道というものがある。特に歴史が古い旧道、いわゆる旧街道には、商店街もまた多い。
東京二十三区内では、幅の広い新しい道に面した土地には、中心街ならオフィスビル、その他であればマンションが立ち並ぶ。これにはいくつか理由が考えられる。まず、大通り沿いは建築基準が緩いことが挙げられる。またひとつには、公共交通を利用する徒歩生活者がいまだ多く、駐車場を併設する大きな商業施設はあまり必要がないということもある。もちろん土地の価格自体が高いので、なるべくたくさんの人や企業に効率良くお金を出してもらえることを考慮した土地利用が自然と進むのもあるだろう。ということで、通りにはビル・マンションが増える。そして旧道にはもともとの古い商業地が残りやすい。
したがってこの旧道の商店街は、決して積極的な計画のもとにそこに位置しているわけではない、ということになる。都市化の成り行きでそうなったにすぎない。だから、駅前の商業地に比べればあっという間に寂れてしまう危険をはらんでいる。東京の街路における通行者の量は、主に駅出入口の有無と、そこへの通り道になっているかどうかによって決まる。いったんそのルートから外れてしまうと、盛り返すのは難しいように思うのだ。
今日は旧東海道を品川から南へ歩く。京浜急行の北品川駅の裏手から、旧東海道沿いの商店街が始まる。北品川は品川駅から南に一駅目で、余所者にはややこしく感じる命名だ。品川のオフィス街に近いということで、昼時にはそれなりに歩いている人がいるが、それも南下すると次第に減っていく。街道であることを意識した建物も見られるものの、全体にはこれまで歩いた低層建物を中心とした商店街とさほど違いはないように思う。ただ、どこもアーチには凝っていて、ちゃんと商店街の名前はわかる。
東海道には京急本線が沿っていて、駅が近づくと商店街も少し賑やかになる。新馬場駅の北口へ続く商店街は銅板張りの商店が複数あり、全体に旧街道側よりレトロな建物が多く、僕としてはこちらのほうが興奮する。一方、街道から入る横丁はひときわ狭く、生活感に溢れている。そして、猫の姿をよく見かける。こういう部分では、品川あたりはいまだに海沿いの街のかおりを残していると思う。
こぢんまりとした青物横丁の商店街を過ぎるといよいよ寂しくなる。鮫洲駅前になると、駅に出入りする狭い路地には小さな店舗が集まっていてまだ良いが、旧街道側はもう店がまばらで、半分は普通の住宅地と言って良い。相変わらず商店街の大きな入口アーチだけは古くて味わいがあるのだが、どうも古いアーチがそのままになっている商店街は内容が寂しい場合が多いような気がする。まあ、アーチなんて利用上はあってもなくてもいいとは思うが。
さらに南の立会川駅前は、第一京浜を渡る横断歩道を挟んで東西それぞれに、ごく短くごく狭い通りの商店街がある。広い道路を横断する必要のある西側の商店街は比較的新しい建物で、歩行者専用道路にされている上、移動式とみられる白い布の蛇腹アーケードが設置されているのが特徴的だ。駅に近い東側は小さな店舗だけで構成された駅前横丁的な商店街となっている。とにかくその幅員は狭く、しかしそれが正しく駅の出入り道路なのだ。昨日まで歩いてきた商店街とは違い、旧道に沿った古い街と鉄道駅という要素を組み合わせた街でしか味わえない風景だ。
ここでいったん商店街は途切れる。そして旧東海道は第一京浜と合流する。立会川駅から二キロほど南の平和島駅東側でふたたび、美原通りという商店街が出現する。
この美原通りや先ほどの品川のあたりでは、商店街としては一続きではあっても、商店会が途中で変わることがある。僕は商店街のありそうな場所を地図から選んで歩いているだけで、商店会の範囲を事前に把握しているわけではないから、こういう商店会の区切りは街灯などを参考に現地でメモを取る。
しかし悩ましいのは、こうした一続きの商店街をブログに載せる際にひとつの記事にするべきか、会ごとに細かく分けるかだ。店が続いているから商店街として意味があるとも言えるし、資料としては商店会単位に切れているほうがわかりやすい。これについては以降もしばらく答えを出せず、初期には地域によって掲載のしかたが多少異なっていた。結局は会単位に直すことにしたが、掲載する写真の足りない商店会が出る破目になった。
旧羽田道のちょっと寂しい商店街を経由して大森町駅に到達し、この日の歩行を終了した。旧東海道の商店街は、まだ健在と言えるとは思うのだけれど、やはり「駅」の集客の影響がより大きいということを感じた。たとえ各駅停車しか停まらない小駅でも、東京では一日に一万人くらいの乗降客がいることがざらにあるが、旧街道であるからといって観光に一日数千人も来るということはない。歴史だけでは地域商業の衰退は止められないし、旧街道全域を商業地にするのはいくらなんでも広すぎるだろう。今後どうなっていくのか、またたまには歩きに行きたい。
※二〇一二年現在、このあたりの旧東海道沿いの商店街アーチの多くはなくなっているか新調されている。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その010 僕の懐かしい商店街
その010 僕の懐かしい商店街 (2005年10月22日歩行)
東京の商店街を初めて歩いたのは、学生時代だった。といってもほんの六年ほど前、九十年代末の話だ。新宿西口から伸びる方南通り沿いに、通っていた専門学校の校舎がいくつかあった。それぞれが徒歩で十分から十五分離れていて、休み時間中の教室移動が困難な場合は授業を一枠(九十分)空けざるを得ないことがよくあった。その空き時間の暇つぶしが、周辺の散策だった。
新宿の西側は、神田川や玉川上水が流れていて、暗渠となった水路跡もまたたくさんあった。そうした低地には、ところどころにちょっとした商店の集まりがあった。そして一車線の古い道筋には、数十軒規模の商店街が発達していた。商店街の少ない名古屋で生まれ育った僕にとって何より驚きだったのは、東京の住宅地内に商店街がまだたくさん存在し続けているということだった。東京育ちの人には商店街が各所にあるのは当たり前のことかもしれないが、僕にはとにかく新鮮だった。
今日はそんな、母校の周囲の商店街を再訪問する。という予定だったのだが、どうも天候がすぐれない。出発するかどうかギリギリまで悩んだ。けれど結局はまた「家で時間を潰すのはもったいない」という気持ちが強くなって、出かけることにした。上京した時からずっと住居は変わっていないから、当時と同じように、最寄り駅から京王線一本で行くことができる。出発が遅くても大丈夫なのはありがたいが、暗いので写真がどうなるかだけが気がかりだ。
幡ヶ谷駅で下車し、六号通りを歩いた。バスを使わない場合、校舎によっては新宿駅から歩くのとさほど時間が変わらないため、この商店街を通って通学することもしばしばだった。傘を差している人もいればそうでない人もいるという程度の小雨模様だが、人通りは多い。買い物をしている人、買い物袋を下げた人がそこら中にいる。学生当時は意識になかったが、いくつか商店街を歩いた今では、これがかなり賑わっている部類の商店街なのだということが実感できる。小型ビルや近代的な店舗付き住宅に建て替えられていて古い建物は少ないのだが、僕にとっては生活している人の動きが見られることが嬉しい。街が生きている感じがする。店の中と車の中にしか人がいない街は、寂しい。
六号坂を下って、中幡小学校のほうへ折れる。若干うねりのある水路跡の道で、銭湯がある。そして、銭湯の近くには、精肉店や青果店のある、ごく小さな商店街があった。ここは在学中には知らなかったので、ちょっと驚いた。当時も地図は見ていたのだが、商店街の有無まではわからないから無理もない。
東京の銭湯というのは八割方、水路の近くに立地している。豆腐店や染物・洗張の店にもその傾向がある。風呂のある家庭が少ない時代の銭湯はたいへんな集客施設だから、その近くには他の商店も出店してきやすい。これが低地や谷地に生活商業地が多い理由のひとつではないかと、僕は思っている。商店街とまではいかなくても、銭湯前に飲食店や理美容室、酒店などが小さく寄り集まっているケースはとても多い。
学校のすぐ裏手だった川島通りもまた、駅とまったく接していない商店街としてはかなりの店舗を維持している。商店街の中身として想像できる店はだいたい何でもある。それほどの規模であるにも関わらず、学生たちはほとんど誰もここを歩いていなかった。校舎が複数ある割に地域活動に熱心ではない学校だったので、卒業まで商店街の存在を知らないままの生徒もいただろう。毎日のように通う学校の至近距離にあるのに、案内板もなければチラシを目にすることもなく、能動的に歩く者のみがその存在に気がつくのだ。東京の商店街とは、つくづく不思議なものだ。
方南通りを挟んで南側の住宅内にある氷川仲通りには、たまに弁当を買っていたコンビニが今もあり、パンをよく買っていたのはその北東にある本町の商店街だった。これらの店も、使っている学生は少なかったように思う。周りの連中に「どこで買ってきたの」「どこまで行ってきたの」などと聞かれたこともあった。移動のついでに行ける、すぐそこなのに……。数年ぶりにふたつの店の生存を確認し、そんなことを思い出して懐かしい気持ちになった(残念ながら二〇一二年現在、パン店はない)。
道なりに新宿方面に進むと、狭い路地の中に、副都心の再開発地を目の前にした古い商店の集まりがある。すでに店を畳んだものが多く、それらしい街灯なども見当たらなかったため、歩いた時には商店街という認識はなかったのだが、後からネットで調べるとちゃんと商店会があった。新宿の繁華街にも商店会そのものはあるので、ここが都心に一番近い商店街などと言うつもりはないけれど、真新しいビルと古い二階建て店舗がワンフレームに収まる風景は東京らしくて面白い。少なくともこの二面があっての東京だ。
雨はほとんど気にならないほどになっていた。最後に幡ヶ谷不動の前の商店街を歩いて帰ることにした。旧幡ヶ谷村の中心として古くから集落のあった場所で、商店街の通りの総延長は六〇〇メートル以上とかなり長く、駅直結ではないにも関わらず規模の大きな商店街だ。
ここには取り立ててこれという思い出はない。校舎からは少し遠かったものの空き時間にはよく散歩したと思うし、当時は銀行ATMがあるのも重宝したのだが、ここで何か買い物をした記憶はほとんど浮かばない。授業の合間に肉や野菜を買うわけにはいかなかったのだ。卒業して二年ほど経ってから、新宿中央公園で夜のオフ会(ネットの知り合いの集まり)があり、その時に僕はこの商店街でフルーツを買って現地で剥いたのだが、ゴキブリが寄ってきたためほとんど食べずに廃棄された。そんなのが今思い浮かぶ最大の思い出だったりする。
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東京の商店街を初めて歩いたのは、学生時代だった。といってもほんの六年ほど前、九十年代末の話だ。新宿西口から伸びる方南通り沿いに、通っていた専門学校の校舎がいくつかあった。それぞれが徒歩で十分から十五分離れていて、休み時間中の教室移動が困難な場合は授業を一枠(九十分)空けざるを得ないことがよくあった。その空き時間の暇つぶしが、周辺の散策だった。
新宿の西側は、神田川や玉川上水が流れていて、暗渠となった水路跡もまたたくさんあった。そうした低地には、ところどころにちょっとした商店の集まりがあった。そして一車線の古い道筋には、数十軒規模の商店街が発達していた。商店街の少ない名古屋で生まれ育った僕にとって何より驚きだったのは、東京の住宅地内に商店街がまだたくさん存在し続けているということだった。東京育ちの人には商店街が各所にあるのは当たり前のことかもしれないが、僕にはとにかく新鮮だった。
今日はそんな、母校の周囲の商店街を再訪問する。という予定だったのだが、どうも天候がすぐれない。出発するかどうかギリギリまで悩んだ。けれど結局はまた「家で時間を潰すのはもったいない」という気持ちが強くなって、出かけることにした。上京した時からずっと住居は変わっていないから、当時と同じように、最寄り駅から京王線一本で行くことができる。出発が遅くても大丈夫なのはありがたいが、暗いので写真がどうなるかだけが気がかりだ。
幡ヶ谷駅で下車し、六号通りを歩いた。バスを使わない場合、校舎によっては新宿駅から歩くのとさほど時間が変わらないため、この商店街を通って通学することもしばしばだった。傘を差している人もいればそうでない人もいるという程度の小雨模様だが、人通りは多い。買い物をしている人、買い物袋を下げた人がそこら中にいる。学生当時は意識になかったが、いくつか商店街を歩いた今では、これがかなり賑わっている部類の商店街なのだということが実感できる。小型ビルや近代的な店舗付き住宅に建て替えられていて古い建物は少ないのだが、僕にとっては生活している人の動きが見られることが嬉しい。街が生きている感じがする。店の中と車の中にしか人がいない街は、寂しい。
六号坂を下って、中幡小学校のほうへ折れる。若干うねりのある水路跡の道で、銭湯がある。そして、銭湯の近くには、精肉店や青果店のある、ごく小さな商店街があった。ここは在学中には知らなかったので、ちょっと驚いた。当時も地図は見ていたのだが、商店街の有無まではわからないから無理もない。
東京の銭湯というのは八割方、水路の近くに立地している。豆腐店や染物・洗張の店にもその傾向がある。風呂のある家庭が少ない時代の銭湯はたいへんな集客施設だから、その近くには他の商店も出店してきやすい。これが低地や谷地に生活商業地が多い理由のひとつではないかと、僕は思っている。商店街とまではいかなくても、銭湯前に飲食店や理美容室、酒店などが小さく寄り集まっているケースはとても多い。
学校のすぐ裏手だった川島通りもまた、駅とまったく接していない商店街としてはかなりの店舗を維持している。商店街の中身として想像できる店はだいたい何でもある。それほどの規模であるにも関わらず、学生たちはほとんど誰もここを歩いていなかった。校舎が複数ある割に地域活動に熱心ではない学校だったので、卒業まで商店街の存在を知らないままの生徒もいただろう。毎日のように通う学校の至近距離にあるのに、案内板もなければチラシを目にすることもなく、能動的に歩く者のみがその存在に気がつくのだ。東京の商店街とは、つくづく不思議なものだ。
方南通りを挟んで南側の住宅内にある氷川仲通りには、たまに弁当を買っていたコンビニが今もあり、パンをよく買っていたのはその北東にある本町の商店街だった。これらの店も、使っている学生は少なかったように思う。周りの連中に「どこで買ってきたの」「どこまで行ってきたの」などと聞かれたこともあった。移動のついでに行ける、すぐそこなのに……。数年ぶりにふたつの店の生存を確認し、そんなことを思い出して懐かしい気持ちになった(残念ながら二〇一二年現在、パン店はない)。
道なりに新宿方面に進むと、狭い路地の中に、副都心の再開発地を目の前にした古い商店の集まりがある。すでに店を畳んだものが多く、それらしい街灯なども見当たらなかったため、歩いた時には商店街という認識はなかったのだが、後からネットで調べるとちゃんと商店会があった。新宿の繁華街にも商店会そのものはあるので、ここが都心に一番近い商店街などと言うつもりはないけれど、真新しいビルと古い二階建て店舗がワンフレームに収まる風景は東京らしくて面白い。少なくともこの二面があっての東京だ。
雨はほとんど気にならないほどになっていた。最後に幡ヶ谷不動の前の商店街を歩いて帰ることにした。旧幡ヶ谷村の中心として古くから集落のあった場所で、商店街の通りの総延長は六〇〇メートル以上とかなり長く、駅直結ではないにも関わらず規模の大きな商店街だ。
ここには取り立ててこれという思い出はない。校舎からは少し遠かったものの空き時間にはよく散歩したと思うし、当時は銀行ATMがあるのも重宝したのだが、ここで何か買い物をした記憶はほとんど浮かばない。授業の合間に肉や野菜を買うわけにはいかなかったのだ。卒業して二年ほど経ってから、新宿中央公園で夜のオフ会(ネットの知り合いの集まり)があり、その時に僕はこの商店街でフルーツを買って現地で剥いたのだが、ゴキブリが寄ってきたためほとんど食べずに廃棄された。そんなのが今思い浮かぶ最大の思い出だったりする。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その009 もったいない
その009 もったいない (2005年10月20日歩行)
この日は目黒本町、清水、目黒不動あたりを歩く。天気は薄曇りだが青空も覗いている。涼しく歩けそうだ。
まずはバスで平和通りへ向かう。ゆったりした街路に商品をはみ出させて並べた、庶民的な雰囲気の商店街だが、ややシャッターが目立った。黄色とオレンジのハロウイン柄の商店街旗が全ての街灯にはためいていて、どうもいつまでもその黄色っぽい印象だけが頭に残る。風景としては昭和の香りが強いのだが、旗だけがそれを一切振り払うかのように浮いていたからだろうか。名前も「平和通り」では土地のイメージといまひとつ結びつかない。
そのあと清水地域の商店街を歩いた。ひたすらレトロではあるのだが、どこもあまり賑わってはいなかった。もともとこの目黒通りあたりは拓けるのが早かったが、競馬場がなくなったり、目黒区役所への入口でもあったのにそれも移転、と昭和期にあまり良い目を見ていない。目黒通りそのものも今でこそインテリアショップ街と呼ばれているが、それは衰退によって大通り沿いの古い店舗が手頃な賃料になったからだろうと思う。ちなみにそのインテリアショップの勢いも、脇通りの商店街までは波及してはいない(そしておそらく、商店会とは関係のないところで集積が進んでいる)。
南下して目黒不動に着いた。観光地としてはいまいちメジャーになれないお寺のひとつだ。江戸時代は江戸からの参拝客で賑わったといい、今も半分は観光地的な体裁なのだが、生活者向けの店と参拝客向けの店が混ざり合っているせいか、なんだか寂しさと違和感がある。うまく言えないが、B級スポット的な匂いがするのだ。街灯が和風のデザインで緑と赤に塗られているのが、かえって白々しくも思えてしまう。寺そのものは立派であるし、縁日に賑わうのは知っているのだが。
最後に東急に乗って不動前駅の小さな商店街を少し歩き、終わりにした。
この日歩いた商店街は、全体に悪い景色ではなかったしもっと歩いてはみたいのだが、現代で生きていくための工夫の感じられない、どこか生気が抜けたような印象が残った。僕はそこに暮らしているわけではない、ただ歩いているだけの他所の人間だから、別にどうだろうとまったくかまわないのだが、せっかく店舗という箱があるのにもったいないとは思う。それは前日の、世田谷線沿線と比べてしまうからかもしれない。とにかく、もったいない。
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この日は目黒本町、清水、目黒不動あたりを歩く。天気は薄曇りだが青空も覗いている。涼しく歩けそうだ。
まずはバスで平和通りへ向かう。ゆったりした街路に商品をはみ出させて並べた、庶民的な雰囲気の商店街だが、ややシャッターが目立った。黄色とオレンジのハロウイン柄の商店街旗が全ての街灯にはためいていて、どうもいつまでもその黄色っぽい印象だけが頭に残る。風景としては昭和の香りが強いのだが、旗だけがそれを一切振り払うかのように浮いていたからだろうか。名前も「平和通り」では土地のイメージといまひとつ結びつかない。
そのあと清水地域の商店街を歩いた。ひたすらレトロではあるのだが、どこもあまり賑わってはいなかった。もともとこの目黒通りあたりは拓けるのが早かったが、競馬場がなくなったり、目黒区役所への入口でもあったのにそれも移転、と昭和期にあまり良い目を見ていない。目黒通りそのものも今でこそインテリアショップ街と呼ばれているが、それは衰退によって大通り沿いの古い店舗が手頃な賃料になったからだろうと思う。ちなみにそのインテリアショップの勢いも、脇通りの商店街までは波及してはいない(そしておそらく、商店会とは関係のないところで集積が進んでいる)。
南下して目黒不動に着いた。観光地としてはいまいちメジャーになれないお寺のひとつだ。江戸時代は江戸からの参拝客で賑わったといい、今も半分は観光地的な体裁なのだが、生活者向けの店と参拝客向けの店が混ざり合っているせいか、なんだか寂しさと違和感がある。うまく言えないが、B級スポット的な匂いがするのだ。街灯が和風のデザインで緑と赤に塗られているのが、かえって白々しくも思えてしまう。寺そのものは立派であるし、縁日に賑わうのは知っているのだが。
最後に東急に乗って不動前駅の小さな商店街を少し歩き、終わりにした。
この日歩いた商店街は、全体に悪い景色ではなかったしもっと歩いてはみたいのだが、現代で生きていくための工夫の感じられない、どこか生気が抜けたような印象が残った。僕はそこに暮らしているわけではない、ただ歩いているだけの他所の人間だから、別にどうだろうとまったくかまわないのだが、せっかく店舗という箱があるのにもったいないとは思う。それは前日の、世田谷線沿線と比べてしまうからかもしれない。とにかく、もったいない。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その008 軌道と古道
その008 軌道と古道 (2005年10月20日歩行)
東京には軌道線、つまり路面電車のように道路面に軌道を敷いた路線がふたつしか残っていない。ひとつは都電荒川線で、王子から飛鳥山にかけては自動車と並んで走る併用区間がある。もうひとつは東急世田谷線だ。ただしほぼ専用の鉄道用地上を走行し、わずかに若林で環七と交差する部分だけが路面電車の面影を残している。
今日はその世田谷線沿線から、いくつかの商店街を歩く。僕は八王子市内から京王線で専門学校に通っていたので、下高井戸で接続する世田谷線に時折足を伸ばしてみたこともあり、いまも荒川線よりは馴染みがある。
まずは山下(豪徳寺)だ。商店街は都道四百二十七号線に沿っているが、都道と言っても全面一車線の曲がりくねった古い道筋だ。ここに、ハンバーガー屋も魚屋も仲良く二階建て程度の建物で並んでいる。駅前だからさすがに昭和の建物ばかりというわけにはいかないが、道路が古いまま商業地が継続していくのは面白い。
世田谷線の周辺は、もともと農地や荒地だったところにあまりに急速に住宅が進出したため、計画的な広い道路が少ない。駅前商業地はそのまま何十年も駅前商業地であり、変なところに大型店ができて急に人が集まりだすということが少ない。道が狭いのは防災上良くないのだろうけれど、人の流れに合わせた自然な街並みという感じが僕にはする。
宮の坂の静かな住宅街を抜けて、三軒茶屋地域の商店街のうちの数カ所を見て回った。三軒茶屋は世田谷線の終点だが東急田園都市線にとっては通過駅にすぎず、バスのターミナルでもない。かといって観光客が押し寄せるような街でもないが、今や東京の代表的な繁華街のひとつと言って良い。その繁栄のおかげで、駅から少々離れたところにも商業地が続いていき、他所なら衰退を辿りそうな通りでも、レトロさをうまく現代的にアレンジして活用されているのをよく目にする。
たとえば看板建築の比較的古い店舗でも、リノベーションし若い個人経営の飲食店や雑貨店に生まれ変わるということがここでは少なくない。もともとある飲食店街の路地も、極端に狭いわ折れ曲がるわで構造的に滅茶苦茶なのだが、今でもそのまま活用されている。使おうと思えば使えるのだ。
北のはずれにある下の谷という商店街に踏み込んだ。戦前に川沿いの低地を宅地化した一帯にあたる。ここは営業している店は少ないのだが、特に古い佇まいを残している。まず入口の薄れかかった黒文字の商店会名の看板だけで、やられてしまう。球形で上半分が白いカバー、下半分がカラーの街灯もレトロだ。そういうアイテムがよく維持されていると思う。最近では時折イベントが行われ、ネットでもたまに名前を見かける。
つまるところ、この三軒茶屋あたりは多くの人に惜しまれているのだろう。そして惜しまれるためには、やはりある程度、街の懐の広さが必要なのだと思う。誰かが造ってくれる新しい道や建物のみをありがたがるのではなく新しい人やアイデアを受け入れていくことで、時代が変わってもその土地の文化とそれに伴う愛着が続いていく、そんな気がする。
西へ折り返して若林の商店街を経て、最後に、やはり新旧の店舗が入り混じりながら昔からの道筋で商売が続けられている松陰神社前を歩き、この日の歩行を終了した。荒川線沿線とは一味違った「軌道と古道の街」を堪能した一日だった。
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東京には軌道線、つまり路面電車のように道路面に軌道を敷いた路線がふたつしか残っていない。ひとつは都電荒川線で、王子から飛鳥山にかけては自動車と並んで走る併用区間がある。もうひとつは東急世田谷線だ。ただしほぼ専用の鉄道用地上を走行し、わずかに若林で環七と交差する部分だけが路面電車の面影を残している。
今日はその世田谷線沿線から、いくつかの商店街を歩く。僕は八王子市内から京王線で専門学校に通っていたので、下高井戸で接続する世田谷線に時折足を伸ばしてみたこともあり、いまも荒川線よりは馴染みがある。
まずは山下(豪徳寺)だ。商店街は都道四百二十七号線に沿っているが、都道と言っても全面一車線の曲がりくねった古い道筋だ。ここに、ハンバーガー屋も魚屋も仲良く二階建て程度の建物で並んでいる。駅前だからさすがに昭和の建物ばかりというわけにはいかないが、道路が古いまま商業地が継続していくのは面白い。
世田谷線の周辺は、もともと農地や荒地だったところにあまりに急速に住宅が進出したため、計画的な広い道路が少ない。駅前商業地はそのまま何十年も駅前商業地であり、変なところに大型店ができて急に人が集まりだすということが少ない。道が狭いのは防災上良くないのだろうけれど、人の流れに合わせた自然な街並みという感じが僕にはする。
宮の坂の静かな住宅街を抜けて、三軒茶屋地域の商店街のうちの数カ所を見て回った。三軒茶屋は世田谷線の終点だが東急田園都市線にとっては通過駅にすぎず、バスのターミナルでもない。かといって観光客が押し寄せるような街でもないが、今や東京の代表的な繁華街のひとつと言って良い。その繁栄のおかげで、駅から少々離れたところにも商業地が続いていき、他所なら衰退を辿りそうな通りでも、レトロさをうまく現代的にアレンジして活用されているのをよく目にする。
たとえば看板建築の比較的古い店舗でも、リノベーションし若い個人経営の飲食店や雑貨店に生まれ変わるということがここでは少なくない。もともとある飲食店街の路地も、極端に狭いわ折れ曲がるわで構造的に滅茶苦茶なのだが、今でもそのまま活用されている。使おうと思えば使えるのだ。
北のはずれにある下の谷という商店街に踏み込んだ。戦前に川沿いの低地を宅地化した一帯にあたる。ここは営業している店は少ないのだが、特に古い佇まいを残している。まず入口の薄れかかった黒文字の商店会名の看板だけで、やられてしまう。球形で上半分が白いカバー、下半分がカラーの街灯もレトロだ。そういうアイテムがよく維持されていると思う。最近では時折イベントが行われ、ネットでもたまに名前を見かける。
つまるところ、この三軒茶屋あたりは多くの人に惜しまれているのだろう。そして惜しまれるためには、やはりある程度、街の懐の広さが必要なのだと思う。誰かが造ってくれる新しい道や建物のみをありがたがるのではなく新しい人やアイデアを受け入れていくことで、時代が変わってもその土地の文化とそれに伴う愛着が続いていく、そんな気がする。
西へ折り返して若林の商店街を経て、最後に、やはり新旧の店舗が入り混じりながら昔からの道筋で商売が続けられている松陰神社前を歩き、この日の歩行を終了した。荒川線沿線とは一味違った「軌道と古道の街」を堪能した一日だった。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その007 おやつコロッケ
その007 おやつコロッケ (2005年10月19日歩行)
今日は、商店街歩きをしていなかったら一生歩かないであろう地域をわざと選んで歩く。そういう場所こそ、この機会に時間とお金をかけて行くべきところなのだ。
都営地下鉄とバスを乗り継いで、江戸川区の大杉というところへやってきた。本来の大杉という集落は一之江寄りにあったらしいが、いまはかなり広い範囲がこの町名で呼ばれている。その中で、商店街は高度成長期にやっと人が住み着き出した地区にある。土地もほぼ平らで、僕のような余所者には「商店街がどうしてその位置になったのか」の根拠は見出しにくい。
昨日歩いたあたりもそうだったが、昭和四十年代ごろ発達した商店街は建物が当時のままであるものが多い。もちろんお金があれば建て替えてしまうのだろうが、商店街が衰退してしまえば、他に収入のアテがある場合を除き、新築するほど儲けるのは難しい。銭湯のように土地が広ければそこにマンションを建て、もし続けたければ一部を店にすればいいのかもしれないが、小さな店ではどうしようもない。辞めるか売るかだ。貸し店舗にしても、住居付き・ローン無しでようやく成立していた店舗など、なかなか借り手もいないだろう。
大杉とその北の松本に続くふたつの商店街も、ある意味では昭和のままの、悪く言えば今の時代ではもはやどうしようもない、そんなどんよりした雰囲気の漂う場所になってしまっていた。ふたつの商店街は連続しているが、街灯が新しいかどうかくらいの差しかないように見える。周囲にもぽつぽつと店舗があるが、いま現在どれほど需要があるものなのか。
南側には区画に逆らうようなうねうねとした道路があり、これが川跡かと思ったが、実はこっちが古くからの道路らしい。鹿骨街道のまっすぐな道ができる前はこちらが主要道路だったと見られる。しかしその当時には道沿いに目立つ集落はなかったようだから、どちらにせよ商店街の成り立ちとはあまり関係がなさそうだ。
そのあと東のほうへバスへ出て、総武本線平井駅周辺を歩いた。この平井は、都区内としては実に地味なJR駅のひとつだ。二十三区内のJRの駅はどこもそれなりの知名度があるが、「平井駅」と言われてパッとわかる人は少ないのではないかと思う。当然、僕も今回初めて駅前を歩く。
駅の北も南も商店街があるのだが、賑わいのある範囲はあまり広くない。しかし過去にはかなり広範囲に商業地として使われた形跡がある。南側はもともと湿地だったところにできた昭和期からの街で、それ以前の集落は駅の北の旧道にだけあった。そしてここも、川跡のようにうねった道路が実は旧道だ。それとは関係なしに、昭和になって商店街とそれに付随する脇通りの店舗群が形成され、そしてほどなくして衰退したのだろう。どこを見渡しても庶民的な感じがするのも、街の成立年代の差分があまりないからだろうか。
最後に、商店会はないようなのだが、駅からずっと北の、平井七丁目の住宅地内にある商店群を歩きに行った。店の軒数は少ないのだが、古風で庶民的なもんじゃ焼き店があるのを見つけた。そしてその近くには揚げ物を売る精肉店があった。今日のコロッケはここで買うことにしよう。男性の店主にメンチとコロッケをひとつずつお願いすると、「ソースかけますか」と聞かれた。そう、ここでは「おやつコロッケ文化」が生き残っているのだ。
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都営地下鉄とバスを乗り継いで、江戸川区の大杉というところへやってきた。本来の大杉という集落は一之江寄りにあったらしいが、いまはかなり広い範囲がこの町名で呼ばれている。その中で、商店街は高度成長期にやっと人が住み着き出した地区にある。土地もほぼ平らで、僕のような余所者には「商店街がどうしてその位置になったのか」の根拠は見出しにくい。
昨日歩いたあたりもそうだったが、昭和四十年代ごろ発達した商店街は建物が当時のままであるものが多い。もちろんお金があれば建て替えてしまうのだろうが、商店街が衰退してしまえば、他に収入のアテがある場合を除き、新築するほど儲けるのは難しい。銭湯のように土地が広ければそこにマンションを建て、もし続けたければ一部を店にすればいいのかもしれないが、小さな店ではどうしようもない。辞めるか売るかだ。貸し店舗にしても、住居付き・ローン無しでようやく成立していた店舗など、なかなか借り手もいないだろう。
大杉とその北の松本に続くふたつの商店街も、ある意味では昭和のままの、悪く言えば今の時代ではもはやどうしようもない、そんなどんよりした雰囲気の漂う場所になってしまっていた。ふたつの商店街は連続しているが、街灯が新しいかどうかくらいの差しかないように見える。周囲にもぽつぽつと店舗があるが、いま現在どれほど需要があるものなのか。
南側には区画に逆らうようなうねうねとした道路があり、これが川跡かと思ったが、実はこっちが古くからの道路らしい。鹿骨街道のまっすぐな道ができる前はこちらが主要道路だったと見られる。しかしその当時には道沿いに目立つ集落はなかったようだから、どちらにせよ商店街の成り立ちとはあまり関係がなさそうだ。
そのあと東のほうへバスへ出て、総武本線平井駅周辺を歩いた。この平井は、都区内としては実に地味なJR駅のひとつだ。二十三区内のJRの駅はどこもそれなりの知名度があるが、「平井駅」と言われてパッとわかる人は少ないのではないかと思う。当然、僕も今回初めて駅前を歩く。
駅の北も南も商店街があるのだが、賑わいのある範囲はあまり広くない。しかし過去にはかなり広範囲に商業地として使われた形跡がある。南側はもともと湿地だったところにできた昭和期からの街で、それ以前の集落は駅の北の旧道にだけあった。そしてここも、川跡のようにうねった道路が実は旧道だ。それとは関係なしに、昭和になって商店街とそれに付随する脇通りの店舗群が形成され、そしてほどなくして衰退したのだろう。どこを見渡しても庶民的な感じがするのも、街の成立年代の差分があまりないからだろうか。
最後に、商店会はないようなのだが、駅からずっと北の、平井七丁目の住宅地内にある商店群を歩きに行った。店の軒数は少ないのだが、古風で庶民的なもんじゃ焼き店があるのを見つけた。そしてその近くには揚げ物を売る精肉店があった。今日のコロッケはここで買うことにしよう。男性の店主にメンチとコロッケをひとつずつお願いすると、「ソースかけますか」と聞かれた。そう、ここでは「おやつコロッケ文化」が生き残っているのだ。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その006 雨の商店街
その006 雨の商店街 (2005年10月18日歩行)
日曜日は休業の店が多いため僕も日曜の歩行は休みとしたが、月曜も悪天候で断念せざるを得なかった。翌十八日の火曜日に歩行を再開した。行き先は大谷口の一部と、小茂根、豊島(北区)という予定になっている。地名だけで何人がわかってくれるかという、地味にも程がある行程だ。この日も天気は小雨で、決行するかどうか迷ったのだが、なにしろ仕事をやってないわけだから、行かないともったいないと思ってしまう。
板橋区の大谷口北町や小茂根といった環七沿いの地域は、明治の頃から小集落はあったものの、全域が宅地化したのは昭和中期以降で、環七通りがこの一帯を貫いてからの街のようだ。昭和中期以降の商店街というと古いのかどうなのかわかりづらいが、それより古ければ戦争で焼けたか遅かれ早かれ老朽化で建て替えられるかだから、味わいのある建物は案外残っているものだ。昭和初期までのような凝った意匠のある外観ではないにしても、関東大震災以降の看板建築の流れを汲んだ店舗が並ぶ風景は、僕としては嫌いではない。この手の建築物のことを安っぽく感じたり、和洋折衷具合がどうにも嫌いだという人もいるので、そうだとすると東京の商店街歩きは辛いかもしれない。
この地域にある上ノ根橋や宮の下もそんな昭和チックな建物がそのまま残る商店街で、雨の中を歩くとはいえ、これはこれでいいものだ。大きな筆文字で書かれた看板がいくつもあり、立ち止まって見てしまう。小雨の中ということもあり、傘をさしながらいまだ不慣れなデジカメ撮影を試みたが写真はうまく撮れなかった。
宮の下の商店街から折れてさらに宅地内へ入るえびす通りは、雨のせいか買い物客はほとんどいなかったが、奥まっているわりにそんなに寂しい商店街でもなかった。建物のレトロさに加えて、張り巡らされた万国旗、地面に商品を並べる青果店、道路ギリギリの位置に冷蔵ケースのある精肉店など、どれもタイムスリップ感がある。雰囲気にも押され、ここで精肉店のコロッケを買った。
一方、環七通りの一本南に並行したような形の小茂根の商店街は、やっている店があまりない。通りを挟んで病院があり、そちらにも似たような規模の商店の集まりがある。街の成立年代から見ても、後から環七で分断されたとは考えにくく、なぜこの位置で、しかも南側だけを商店街としたのか不思議だ。地形としては環七からガクンと下がった谷にあたるので、やはり商店からの排水の都合で決めたのだろうか。ちなみに小茂根というのは、小山町と茂呂町(毛呂)と根上町(根ノ上)の合成地名だ。これもかなり無理のある付け方だと思う。なんだかいろいろと、バランスの取れていない街という気がする。
環七通りからバスで豊島方面へ向かった。この小茂根と豊島の組み合わせは、単にバスの便がいいからというのもある。空いたのバスに二十分ほど乗って、王子五丁目という停留所で降りた。王子五丁目とはそっけない停留所名だが、実は南北線・王子神谷駅の真上である。地下鉄南北線はかつての王子電車をなぞって作られてから、元々古くから鉄道があった土地だ。ここから分岐する庚申通りが、目的の商店街となる。
入口にはその名のとおり、立派な庚申堂がある。ここは東西方向に長く伸びている商店街で、過去にあった最大の店舗数を想像すると、かなり拓けている感じだ。戦前までには開発されていたようで、今はかなりの住宅密集地になっている。一方通行ながらバス通りでもあり、王子駅と新田方面を結ぶ路線が狭隘道路を走っている。これは現在の東京ではかなり珍しい光景だ。商店街そのものは、バスに乗ってくる前に歩いた板橋の地域に比べるとやや新しい建物が多く、成立以降に一度作りなおされた商店街という感じがする。
ぶらぶらと南東へと進むと、一部の歩道上に屋根がかけられた豊島の商店街にたどり着く。ここも南北方向にかなり長い距離に渡る商店街で、庚申通り側よりもさらに早くから開発されていた場所だ。駅から離れた土地ではあるが商店街の規模は大きく、食品系の店は今もしっかりと営業している。僕はここで何か買おうと思い、しばらくうろうろした。しかし屋根があるといっても雨天のため客足は少なく、うろつく自分がなんだか目立つ気さえした。早く決断しようと普段は買わない焼き鳥などを買ってしまったが、安くはなかった。
その近くのちょっと寂しい商店街をひとつ歩き、この日の一応の予定をこなして帰宅した。温めなおした焼き鳥は、とてもおいしかった。
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日曜日は休業の店が多いため僕も日曜の歩行は休みとしたが、月曜も悪天候で断念せざるを得なかった。翌十八日の火曜日に歩行を再開した。行き先は大谷口の一部と、小茂根、豊島(北区)という予定になっている。地名だけで何人がわかってくれるかという、地味にも程がある行程だ。この日も天気は小雨で、決行するかどうか迷ったのだが、なにしろ仕事をやってないわけだから、行かないともったいないと思ってしまう。
板橋区の大谷口北町や小茂根といった環七沿いの地域は、明治の頃から小集落はあったものの、全域が宅地化したのは昭和中期以降で、環七通りがこの一帯を貫いてからの街のようだ。昭和中期以降の商店街というと古いのかどうなのかわかりづらいが、それより古ければ戦争で焼けたか遅かれ早かれ老朽化で建て替えられるかだから、味わいのある建物は案外残っているものだ。昭和初期までのような凝った意匠のある外観ではないにしても、関東大震災以降の看板建築の流れを汲んだ店舗が並ぶ風景は、僕としては嫌いではない。この手の建築物のことを安っぽく感じたり、和洋折衷具合がどうにも嫌いだという人もいるので、そうだとすると東京の商店街歩きは辛いかもしれない。
この地域にある上ノ根橋や宮の下もそんな昭和チックな建物がそのまま残る商店街で、雨の中を歩くとはいえ、これはこれでいいものだ。大きな筆文字で書かれた看板がいくつもあり、立ち止まって見てしまう。小雨の中ということもあり、傘をさしながらいまだ不慣れなデジカメ撮影を試みたが写真はうまく撮れなかった。
宮の下の商店街から折れてさらに宅地内へ入るえびす通りは、雨のせいか買い物客はほとんどいなかったが、奥まっているわりにそんなに寂しい商店街でもなかった。建物のレトロさに加えて、張り巡らされた万国旗、地面に商品を並べる青果店、道路ギリギリの位置に冷蔵ケースのある精肉店など、どれもタイムスリップ感がある。雰囲気にも押され、ここで精肉店のコロッケを買った。
一方、環七通りの一本南に並行したような形の小茂根の商店街は、やっている店があまりない。通りを挟んで病院があり、そちらにも似たような規模の商店の集まりがある。街の成立年代から見ても、後から環七で分断されたとは考えにくく、なぜこの位置で、しかも南側だけを商店街としたのか不思議だ。地形としては環七からガクンと下がった谷にあたるので、やはり商店からの排水の都合で決めたのだろうか。ちなみに小茂根というのは、小山町と茂呂町(毛呂)と根上町(根ノ上)の合成地名だ。これもかなり無理のある付け方だと思う。なんだかいろいろと、バランスの取れていない街という気がする。
環七通りからバスで豊島方面へ向かった。この小茂根と豊島の組み合わせは、単にバスの便がいいからというのもある。空いたのバスに二十分ほど乗って、王子五丁目という停留所で降りた。王子五丁目とはそっけない停留所名だが、実は南北線・王子神谷駅の真上である。地下鉄南北線はかつての王子電車をなぞって作られてから、元々古くから鉄道があった土地だ。ここから分岐する庚申通りが、目的の商店街となる。
入口にはその名のとおり、立派な庚申堂がある。ここは東西方向に長く伸びている商店街で、過去にあった最大の店舗数を想像すると、かなり拓けている感じだ。戦前までには開発されていたようで、今はかなりの住宅密集地になっている。一方通行ながらバス通りでもあり、王子駅と新田方面を結ぶ路線が狭隘道路を走っている。これは現在の東京ではかなり珍しい光景だ。商店街そのものは、バスに乗ってくる前に歩いた板橋の地域に比べるとやや新しい建物が多く、成立以降に一度作りなおされた商店街という感じがする。
ぶらぶらと南東へと進むと、一部の歩道上に屋根がかけられた豊島の商店街にたどり着く。ここも南北方向にかなり長い距離に渡る商店街で、庚申通り側よりもさらに早くから開発されていた場所だ。駅から離れた土地ではあるが商店街の規模は大きく、食品系の店は今もしっかりと営業している。僕はここで何か買おうと思い、しばらくうろうろした。しかし屋根があるといっても雨天のため客足は少なく、うろつく自分がなんだか目立つ気さえした。早く決断しようと普段は買わない焼き鳥などを買ってしまったが、安くはなかった。
その近くのちょっと寂しい商店街をひとつ歩き、この日の一応の予定をこなして帰宅した。温めなおした焼き鳥は、とてもおいしかった。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その005 砂町
その005 砂町 (2005年10月15日歩行)
東京在住の方には言うまでもないことかもしれないが、砂町銀座は東京二十三区の商店街ではトップクラスの賑わいを誇る、マスコミ露出の多い商店街だ。……ということを、僕はこの日行くまで(そして帰るまで)まったく知らなかった! 八王子在住の当時の僕は東京の東側には特に疎く、砂町と金町を混同することさえあったくらいだ。
実は現在、「砂町」という町名はない。しかし「砂」の字がつく町名の範囲はとてつもなく広い。南砂・東砂・北砂・新砂に分かれ、さらに多いところで八丁目まで存在する。しかし鉄道駅名としては東京メトロ東西線の南砂町駅ひとつのみで、一九七二年に城東電車がなくなってからはバスが公共交通を担いつづけている。したがって、縁のない人はまったく足を運ぶ機会がない地域である。
そのバスで東砂一丁目まで乗り付け、まずは末広通りを歩く。かつては旧葛西橋の繁華街から続いていたと思われる長大な直線の商店街だ。橋が架け替えられ電車もなくなり、葛西橋は完全に衰退したが、末広通りもギリギリ生き残っているかどうかという具合に見える。昭和の匂いのする商店の建物はいくつもあるが、営業しているものは決して多くはなく、新しい出店者はほとんど見当たらない。
大きなマンションを建てているところもあった。建設反対の垂れ幕には「地下の毒素が目を覚ます」と書かれていた。こんなことを掲げていたらよけいに暗い気持ちになるのではないか。
末広通りから西へ抜けて、北砂の砂町銀座に向かった。夕刻でもないし駅があるわけでもないのに、商店街に入る前からたくさんの人がその方向に流れている。いままでにない光景に、僕も思わず足が急ぐ。
角を曲がって時計つきのアーチをくぐと、なんだこれは! という人数で狭い街路が埋め尽くされている。初めて新宿を訪れたお上りさんのように、これは祭か何かではないのかと疑ったが、もちろんまったく違うらしい。並ぶ店のほうも、揚げ物、焼鳥、精肉、鮮魚、パン、青果、飲食店など目移りするほどさまざまな種類があり、そのほとんどが個人経営の商店だ。特に食品を扱う店は客の応対で忙しくしていて、これまで見てきたのんびりした商店街の雰囲気とは違っていた。客を室内に囲ってしまうチェーン店が少ない分、人間味ある個人商店がたくさんの客をそれぞれ引き受けているのを目の当たりにでき、全体が生き生きとして見える。
良さそうなカメラで写真を撮る若い女性もいた。これまで自分以外に商店街を撮っている人は見かけなかったのだが、ここは充分撮影対象になる商店街なのだろう。存在をまったく知らなかったのに、最初のうちにこの商店街を歩けたのはラッキーだ。知らずに数年スルーしていたら、ちょっとかっこ悪かった。何より、こんな商店街もちゃんと存在するのだということに励まされた。
砂町銀座の北に並行する稲荷通りには、その賑わいがまったくと言っていいほど影響していなかったのも印象的だった。すべての商業地が繁栄できるわけではない。いったい砂町銀座はどうしてここまで賑わいを作り出し維持することができたのか。もちろん多くの努力はあったのだろうけど、あまりの差の出方に驚くばかりだ。
この日はここまでの短い歩行に留めた。けれどとても衝撃的な日だった。砂町銀座に戻り、チキンカツとコロッケを買って帰ることにした。
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実は現在、「砂町」という町名はない。しかし「砂」の字がつく町名の範囲はとてつもなく広い。南砂・東砂・北砂・新砂に分かれ、さらに多いところで八丁目まで存在する。しかし鉄道駅名としては東京メトロ東西線の南砂町駅ひとつのみで、一九七二年に城東電車がなくなってからはバスが公共交通を担いつづけている。したがって、縁のない人はまったく足を運ぶ機会がない地域である。
そのバスで東砂一丁目まで乗り付け、まずは末広通りを歩く。かつては旧葛西橋の繁華街から続いていたと思われる長大な直線の商店街だ。橋が架け替えられ電車もなくなり、葛西橋は完全に衰退したが、末広通りもギリギリ生き残っているかどうかという具合に見える。昭和の匂いのする商店の建物はいくつもあるが、営業しているものは決して多くはなく、新しい出店者はほとんど見当たらない。
大きなマンションを建てているところもあった。建設反対の垂れ幕には「地下の毒素が目を覚ます」と書かれていた。こんなことを掲げていたらよけいに暗い気持ちになるのではないか。
末広通りから西へ抜けて、北砂の砂町銀座に向かった。夕刻でもないし駅があるわけでもないのに、商店街に入る前からたくさんの人がその方向に流れている。いままでにない光景に、僕も思わず足が急ぐ。
角を曲がって時計つきのアーチをくぐと、なんだこれは! という人数で狭い街路が埋め尽くされている。初めて新宿を訪れたお上りさんのように、これは祭か何かではないのかと疑ったが、もちろんまったく違うらしい。並ぶ店のほうも、揚げ物、焼鳥、精肉、鮮魚、パン、青果、飲食店など目移りするほどさまざまな種類があり、そのほとんどが個人経営の商店だ。特に食品を扱う店は客の応対で忙しくしていて、これまで見てきたのんびりした商店街の雰囲気とは違っていた。客を室内に囲ってしまうチェーン店が少ない分、人間味ある個人商店がたくさんの客をそれぞれ引き受けているのを目の当たりにでき、全体が生き生きとして見える。
良さそうなカメラで写真を撮る若い女性もいた。これまで自分以外に商店街を撮っている人は見かけなかったのだが、ここは充分撮影対象になる商店街なのだろう。存在をまったく知らなかったのに、最初のうちにこの商店街を歩けたのはラッキーだ。知らずに数年スルーしていたら、ちょっとかっこ悪かった。何より、こんな商店街もちゃんと存在するのだということに励まされた。
砂町銀座の北に並行する稲荷通りには、その賑わいがまったくと言っていいほど影響していなかったのも印象的だった。すべての商業地が繁栄できるわけではない。いったい砂町銀座はどうしてここまで賑わいを作り出し維持することができたのか。もちろん多くの努力はあったのだろうけど、あまりの差の出方に驚くばかりだ。
この日はここまでの短い歩行に留めた。けれどとても衝撃的な日だった。砂町銀座に戻り、チキンカツとコロッケを買って帰ることにした。
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