東京都の商店街・商店群(主に東京23区内)を散歩し、様子を写真つきで簡単にまとめているブログです。 ※管理人=志歌寿ケイト(しかすけいと)
現在、東京の商店街・商店群の紹介記事を約2000件掲載している他、散策モデルコース図などもあります。
※各記事の内容は主観的なものであり、またその日付の時点のものですのでご了承ください。なくなった商店会も含んでいます。
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2005年01月01日
東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その004 猫の喧嘩
その004 猫の喧嘩 (2005年10月14日歩行)
「中央線文化」という言葉がある。僕はこれがあまり好きではない。なんとも東京都心中心主義的ネーミングがまず嫌なのだ。その範囲に含められているのは中央快速線でもごく一部の駅にすぎない。僕は常々「中央線ってのは名古屋まで続いてるんだ!」と言っている。高尾から先は中央本線であると言う人もいるが、それを言うなら全線が中央本線だろう。それに名古屋でも中央線と呼ぶし、駅でもそう案内されている。
鉄道路線で文化をあれこれ言うというのは、東京についての本によくあることだが、僕は半分ネタだと思っている。実際にはもっと小さい駅勢圏みたいなもので見たほうがしっくりくる。都区内の中央快速線の駅前は、適度な駅間隔のおかげでそれぞれが大きな拠点性を持っている。これは良いことだと思う。
今日はその中央快速線からちょっと外れた、不遇な地域を歩く。仲良くなれるといいのだが。
まず中野区の中央仲通りに向かう。中央とは現在の町名、仲というのは元の町名・仲町から取ったのだろう。結果としてはぼんやりとした名称になっていて、具体的にどこなのかはイメージしづらい。新宿からバスに乗り、中野警察署のあたりで下車する。青梅街道脇に、この商店街の入口アーチがある。レトロな書体で商店街名が大きく書かれていて、期待を膨らませる。しかし中に入ると、見事な肩透かしを食らう。ほとんど普通の住宅地と化し、もはや商店街としては成立していない。定食屋という看板は出しているがうどんとそばしか食べられない、みたいな感じだ。おそらく今後もメニューが増えることはないだろう。
それから大久保通りを越えて北へ進み、城山という地域にあるふたつの商店街へ移動する。ここも住宅密集地内の商業地で、二車線以上の道路にはまっくた面しておらず、秘境のような商店街だ。もっとも、クリーニングや理美容室などお決まりの店が残るのみで、唯一コンビニが繁盛しているだけの寂しい通りとなっている。ただ一軒、「日糧のパン」の看板を掲げた駄菓子屋のようなレトロな店は雰囲気があった。入口には硬貨を弾く懐かしいゲーム台が置かれ、奥に色あせたプラモデルのような箱が積んであった。
懐かしいと書いたが、1979年生まれの僕にとって、非電動のゲームはリアルタイムではない。僕が子どもの頃のお気に入りは、シャベルのようなものでお菓子をすくったあと台の上にぶちまけて押し出させるゲームと、単純に確率で当たりを決めているであろうメダルゲームだった。お菓子を取るゲームはかなりうまかった(卑怯な積み方をされていなければだが!)。
この日のここまでの商店街は、古地図で確認するとそこまで古いものではなく、昭和初期までに住宅地が広がる過程で成立したものと思われる。繁盛していた時期はごく短かっただろうし、それだけに衰退も早い。
城山から「文園(ぶんえん)」という昔の町名のついた銭湯の前を通って、北野天神前の商店街に着いた。駅から続くような商店街ではないが、比較的まっすぐな道路が少ない中で東側の住宅地への通り道になっているせいか、城山の商店街よりは買い物機能を保っていた。店舗も全体にレトロなものしかない。神社の前に集まっているというのが、昔からの村の中心みたいで良いのだが、神社の成立よりはずっとあとの大正時代に住み始めた集落のようだ。それでも「そこを商店街にしよう」と拠り所に決めたのが神社の前というのは、なんだか日本的でかっこいいと思う。
中野駅方面に行く途中、マンション下の草むらで、激しい猫の喧嘩を見た。負けた猫ってこんなに組み敷かれるんだな、と思った。いつもはのんびりとして見える猫の世界にも、彼らなりの競争がある。街もそうだ。静かだったり楽しそうだったりしても、どこかで消費の奪い合いをしているし、しなくてはならない。この先、商店街歩行として巡るのはどちらかと言えば「敗者」の街のほうなのだが、当事者以外にそれに目を向ける僕のような人間がいてもいいだろう。そんなことを思った。
そのあとで通った、中野駅と高円寺駅の中間にある谷中通りという名前の商店街は、いつごろ流行ったのか、そもそも繁盛した時期があったのか、想像もつかないほどの寂しさだった。ただ名前が示すように、ゆるやかな谷に沿っているのだけは確かだった。両側が戸建住宅で埋め尽くされた谷底の狭い街路を二往復ほどしたが、今後ここが商業地として盛り返すようなことはないだろうなと思った。東京の場合、商店跡の大半は宅地として使われるのだから、それはそれで良いのだ。
最後に高円寺駅の北側の、賑わった幾つかの商店街を歩いた。まあ今さら僕が語るまでもないから、ここは割愛する。どうせちょっとやそっと歩いてもわかりっこないし、開設は中央線文化が好きな方々に任せたい。高円寺の北のはずれ、人の流れの絶えた大和町の商店街で、揚げ物を買って帰宅した。細かな衣のコロッケが美味しかった。
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※目次はこちらです。
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「中央線文化」という言葉がある。僕はこれがあまり好きではない。なんとも東京都心中心主義的ネーミングがまず嫌なのだ。その範囲に含められているのは中央快速線でもごく一部の駅にすぎない。僕は常々「中央線ってのは名古屋まで続いてるんだ!」と言っている。高尾から先は中央本線であると言う人もいるが、それを言うなら全線が中央本線だろう。それに名古屋でも中央線と呼ぶし、駅でもそう案内されている。
鉄道路線で文化をあれこれ言うというのは、東京についての本によくあることだが、僕は半分ネタだと思っている。実際にはもっと小さい駅勢圏みたいなもので見たほうがしっくりくる。都区内の中央快速線の駅前は、適度な駅間隔のおかげでそれぞれが大きな拠点性を持っている。これは良いことだと思う。
今日はその中央快速線からちょっと外れた、不遇な地域を歩く。仲良くなれるといいのだが。
まず中野区の中央仲通りに向かう。中央とは現在の町名、仲というのは元の町名・仲町から取ったのだろう。結果としてはぼんやりとした名称になっていて、具体的にどこなのかはイメージしづらい。新宿からバスに乗り、中野警察署のあたりで下車する。青梅街道脇に、この商店街の入口アーチがある。レトロな書体で商店街名が大きく書かれていて、期待を膨らませる。しかし中に入ると、見事な肩透かしを食らう。ほとんど普通の住宅地と化し、もはや商店街としては成立していない。定食屋という看板は出しているがうどんとそばしか食べられない、みたいな感じだ。おそらく今後もメニューが増えることはないだろう。
それから大久保通りを越えて北へ進み、城山という地域にあるふたつの商店街へ移動する。ここも住宅密集地内の商業地で、二車線以上の道路にはまっくた面しておらず、秘境のような商店街だ。もっとも、クリーニングや理美容室などお決まりの店が残るのみで、唯一コンビニが繁盛しているだけの寂しい通りとなっている。ただ一軒、「日糧のパン」の看板を掲げた駄菓子屋のようなレトロな店は雰囲気があった。入口には硬貨を弾く懐かしいゲーム台が置かれ、奥に色あせたプラモデルのような箱が積んであった。
懐かしいと書いたが、1979年生まれの僕にとって、非電動のゲームはリアルタイムではない。僕が子どもの頃のお気に入りは、シャベルのようなものでお菓子をすくったあと台の上にぶちまけて押し出させるゲームと、単純に確率で当たりを決めているであろうメダルゲームだった。お菓子を取るゲームはかなりうまかった(卑怯な積み方をされていなければだが!)。
この日のここまでの商店街は、古地図で確認するとそこまで古いものではなく、昭和初期までに住宅地が広がる過程で成立したものと思われる。繁盛していた時期はごく短かっただろうし、それだけに衰退も早い。
城山から「文園(ぶんえん)」という昔の町名のついた銭湯の前を通って、北野天神前の商店街に着いた。駅から続くような商店街ではないが、比較的まっすぐな道路が少ない中で東側の住宅地への通り道になっているせいか、城山の商店街よりは買い物機能を保っていた。店舗も全体にレトロなものしかない。神社の前に集まっているというのが、昔からの村の中心みたいで良いのだが、神社の成立よりはずっとあとの大正時代に住み始めた集落のようだ。それでも「そこを商店街にしよう」と拠り所に決めたのが神社の前というのは、なんだか日本的でかっこいいと思う。
中野駅方面に行く途中、マンション下の草むらで、激しい猫の喧嘩を見た。負けた猫ってこんなに組み敷かれるんだな、と思った。いつもはのんびりとして見える猫の世界にも、彼らなりの競争がある。街もそうだ。静かだったり楽しそうだったりしても、どこかで消費の奪い合いをしているし、しなくてはならない。この先、商店街歩行として巡るのはどちらかと言えば「敗者」の街のほうなのだが、当事者以外にそれに目を向ける僕のような人間がいてもいいだろう。そんなことを思った。
そのあとで通った、中野駅と高円寺駅の中間にある谷中通りという名前の商店街は、いつごろ流行ったのか、そもそも繁盛した時期があったのか、想像もつかないほどの寂しさだった。ただ名前が示すように、ゆるやかな谷に沿っているのだけは確かだった。両側が戸建住宅で埋め尽くされた谷底の狭い街路を二往復ほどしたが、今後ここが商業地として盛り返すようなことはないだろうなと思った。東京の場合、商店跡の大半は宅地として使われるのだから、それはそれで良いのだ。
最後に高円寺駅の北側の、賑わった幾つかの商店街を歩いた。まあ今さら僕が語るまでもないから、ここは割愛する。どうせちょっとやそっと歩いてもわかりっこないし、開設は中央線文化が好きな方々に任せたい。高円寺の北のはずれ、人の流れの絶えた大和町の商店街で、揚げ物を買って帰宅した。細かな衣のコロッケが美味しかった。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その003 都電沿線
その003 都電沿線 (2005年10月13日歩行)
歩行三日目。この日は都電沿線から、小台・尾久・町屋二丁目を歩く。都電沿線は何度か歩いたことかあるから、まったくどんなところか見当もつかないってことはない。少しは賑やかな商店街として、宛てにして選んだのだ。
この最初の一ヶ月間のまとめ歩きでは二十三区をまんべんなく歩くことを目的としているのだが、なにしろたった一ヶ月間だから、行けても一区につき数地域。ブログに載せる商店会記事数にしたら、二百箇所程度にすぎない。でもたとえその程度の量だとしても、最初に書いたとおり、商店街歩きを題材にしたサイトというのはまだほとんどなかった。Googleでの「東京の商店街を歩こう」の検索順位は、この最初の一ヶ月のまとめ歩きを終えた時とそれ以降とで、ほとんど変わらない。
池袋から西新井へ行く都バスに乗って、まずは宮城を歩くことにした。隅田川の向こうの足立区に位置する小台と宮城は、荒川放水路の開削によって足立区側とも分断され、二本の川に挟まれた孤立地帯になった地域だ。
カラーブロック舗装されたまっすぐで広い一車線道路が、宮城地域の中心街路だ。そこに二階か三階建ての店舗が十数軒程度並んだ生活商業地があり、さらに中規模の公園も隣接している。街で一番大きなその公園には、子供と母親、そしてお年寄りたちがのんびりと溜まっている。まさに街の広場だ。公園の前には、何か忘れてしまったが食品の露店も出ていた。ささやかな明るさと、川に阻まれて孤立していることを実感させる静けさがあり、純粋な地元の生活の流れの中に足を踏み込んでいるのだという感触があった。人によっては東京のこのような場所を「寂しい」と言うかもしれないけれど、僕にとってはホッとする。
一方、周囲の二車線道路には、使い古された店舗たちが半分朽ちて佇んでいた。鉄枠に結わえ付けられているべきテント布が破れ、だらしなく風になびく。まるで「こんなところへ何をしに来たか」と言わんばかりだ。使命を終えた店舗がそのままになっている風景は、そこらの流行りの商店などより、はるかに深く心に刻みつけられるものがある。もっとも、今後もがんばろうという商店街においては、そんな壊れかけた建物はさっさと取り壊して、新築の住宅にでもしてもらったほうがよほど良いイメージになるのは間違いない。商売を続ける意欲がなくなったことを示す物証なんて、地元では誰も欲しくはないだろう。
この宮城には商店会はないようだが、東に隣り合う小台にはある。立派な造りの銭湯を中心に、古い米店や布団店なんかがいくつか並んでいる。そこに接する狭くうねった二車線の通りには、駒込病院・東京駅方面への都営バスがそこそこの頻度で運行されている。ただ、人が滞留する場所や商業施設がないせいか、特に強い印象は残らなかった。適当に写真を撮って、都電の小台駅のほうへ進んだ。
都電小台駅の南、旧小台通りという狭い街路に、ふたつの商店会に分かれた小台銀座がある。周囲の低層住宅地に根付いた、二階建てのやや古い商店が並ぶ生活向けの商店街だ。駅から離れた南側地域には辞めてしまった商店もいくつも見かけたものの、スーパー以外で生活食料品や雑貨の買えるだけの店がある商店街である。東京ですらまともに機能し続ける商店街は少ない、ということはすでにわかっているので、僕にはここも充分な賑わいに見える。地元の人は「昔はもっと活気があったのに」と言うだろうけれど。
一往復して、精肉店で持ち帰り用にコロッケを買い、北端部にある小型スーパーで昼食の鮭弁当も買った。どこで食べたかは忘れたが、公園が近くになくて変なところで食べた気がする。
そのあと、都電でひとつ東にある宮の前駅の女子医大通りへ移動した。見た目は店舗が少ないながらもレトロな佇まいの商店街なのだが、病院へ向かうタクシーが頻繁に走っていて出入りが丸見えだから、いろんなドラマを想像してしまって少し妙な感じだ。
この日一番寂しかったのは熊野前の北にある商店街で、一応表通りに名前が書かれているものの、営業している店は数えるほどだった。人通りもない。渡し舟の発着点へと繋がる古い道らしいが、渡船がなくなって久しい現在までよく商店街だけ残ったものだ。それでも、青果店で買い物する老婆を一人だけ見かけた。
南へ折り返し熊野前の商店街を経て、尾久銀座を歩行する。商店街があるのは一車線の普通の道路だが、駅から離れていくにも関わらずだんだんと人通りが増えて賑やかになっていく。もちろん観光地や大きな施設があるわけではなく、周囲は住宅街である。スーパーと個人商店が両立していて、食料品関係の店はこれまで見てきたどこよりも充実している。洋品店や薬店のほか、なんとパチンコ店まである。このような都電沿いの小台や尾久の商店街は、東京観光に来た人にもお薦めしたい商店街だ。
東に折れて、万国旗が張り巡らされた地方の商店街のような尾久本町の通りを抜け、町屋二丁目の町屋銀座へ到達した。ここは今となっては「名ばかり銀座」のひとつだが、古い生活道路に沿った商業地だということは窺える。そのまま道を南に進むと、商店街の街灯が違う形のものに変わるのだが、名前がわからない。ようやくたったひとつだけ、商店会名の書かれた街灯を見つけた。江戸道商店街と書かれている。営業店舗はまばら、というよりほとんど無く、この商店会がいまもあるのかさえ不明だ。名前をわざわざ外しいるのだとしたら、もう存在しないのかもしれない。よく街灯を維持してこれたものだと思う。こういう物は商店街の残り香のようなもので、ミステリアスな魅力を感じずにはいられない。
この日は多くの商店街を歩けたが、その分、ブログの更新は煩雑だった。その日のうちに更新するのは記憶が薄れないから良いことだとは思うが、疲れて帰ってきたあとにすべてをこなすのは、PCが苦手ではない僕でもなかなかしんどいものだ。
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歩行三日目。この日は都電沿線から、小台・尾久・町屋二丁目を歩く。都電沿線は何度か歩いたことかあるから、まったくどんなところか見当もつかないってことはない。少しは賑やかな商店街として、宛てにして選んだのだ。
この最初の一ヶ月間のまとめ歩きでは二十三区をまんべんなく歩くことを目的としているのだが、なにしろたった一ヶ月間だから、行けても一区につき数地域。ブログに載せる商店会記事数にしたら、二百箇所程度にすぎない。でもたとえその程度の量だとしても、最初に書いたとおり、商店街歩きを題材にしたサイトというのはまだほとんどなかった。Googleでの「東京の商店街を歩こう」の検索順位は、この最初の一ヶ月のまとめ歩きを終えた時とそれ以降とで、ほとんど変わらない。
池袋から西新井へ行く都バスに乗って、まずは宮城を歩くことにした。隅田川の向こうの足立区に位置する小台と宮城は、荒川放水路の開削によって足立区側とも分断され、二本の川に挟まれた孤立地帯になった地域だ。
カラーブロック舗装されたまっすぐで広い一車線道路が、宮城地域の中心街路だ。そこに二階か三階建ての店舗が十数軒程度並んだ生活商業地があり、さらに中規模の公園も隣接している。街で一番大きなその公園には、子供と母親、そしてお年寄りたちがのんびりと溜まっている。まさに街の広場だ。公園の前には、何か忘れてしまったが食品の露店も出ていた。ささやかな明るさと、川に阻まれて孤立していることを実感させる静けさがあり、純粋な地元の生活の流れの中に足を踏み込んでいるのだという感触があった。人によっては東京のこのような場所を「寂しい」と言うかもしれないけれど、僕にとってはホッとする。
一方、周囲の二車線道路には、使い古された店舗たちが半分朽ちて佇んでいた。鉄枠に結わえ付けられているべきテント布が破れ、だらしなく風になびく。まるで「こんなところへ何をしに来たか」と言わんばかりだ。使命を終えた店舗がそのままになっている風景は、そこらの流行りの商店などより、はるかに深く心に刻みつけられるものがある。もっとも、今後もがんばろうという商店街においては、そんな壊れかけた建物はさっさと取り壊して、新築の住宅にでもしてもらったほうがよほど良いイメージになるのは間違いない。商売を続ける意欲がなくなったことを示す物証なんて、地元では誰も欲しくはないだろう。
この宮城には商店会はないようだが、東に隣り合う小台にはある。立派な造りの銭湯を中心に、古い米店や布団店なんかがいくつか並んでいる。そこに接する狭くうねった二車線の通りには、駒込病院・東京駅方面への都営バスがそこそこの頻度で運行されている。ただ、人が滞留する場所や商業施設がないせいか、特に強い印象は残らなかった。適当に写真を撮って、都電の小台駅のほうへ進んだ。
都電小台駅の南、旧小台通りという狭い街路に、ふたつの商店会に分かれた小台銀座がある。周囲の低層住宅地に根付いた、二階建てのやや古い商店が並ぶ生活向けの商店街だ。駅から離れた南側地域には辞めてしまった商店もいくつも見かけたものの、スーパー以外で生活食料品や雑貨の買えるだけの店がある商店街である。東京ですらまともに機能し続ける商店街は少ない、ということはすでにわかっているので、僕にはここも充分な賑わいに見える。地元の人は「昔はもっと活気があったのに」と言うだろうけれど。
一往復して、精肉店で持ち帰り用にコロッケを買い、北端部にある小型スーパーで昼食の鮭弁当も買った。どこで食べたかは忘れたが、公園が近くになくて変なところで食べた気がする。
そのあと、都電でひとつ東にある宮の前駅の女子医大通りへ移動した。見た目は店舗が少ないながらもレトロな佇まいの商店街なのだが、病院へ向かうタクシーが頻繁に走っていて出入りが丸見えだから、いろんなドラマを想像してしまって少し妙な感じだ。
この日一番寂しかったのは熊野前の北にある商店街で、一応表通りに名前が書かれているものの、営業している店は数えるほどだった。人通りもない。渡し舟の発着点へと繋がる古い道らしいが、渡船がなくなって久しい現在までよく商店街だけ残ったものだ。それでも、青果店で買い物する老婆を一人だけ見かけた。
南へ折り返し熊野前の商店街を経て、尾久銀座を歩行する。商店街があるのは一車線の普通の道路だが、駅から離れていくにも関わらずだんだんと人通りが増えて賑やかになっていく。もちろん観光地や大きな施設があるわけではなく、周囲は住宅街である。スーパーと個人商店が両立していて、食料品関係の店はこれまで見てきたどこよりも充実している。洋品店や薬店のほか、なんとパチンコ店まである。このような都電沿いの小台や尾久の商店街は、東京観光に来た人にもお薦めしたい商店街だ。
東に折れて、万国旗が張り巡らされた地方の商店街のような尾久本町の通りを抜け、町屋二丁目の町屋銀座へ到達した。ここは今となっては「名ばかり銀座」のひとつだが、古い生活道路に沿った商業地だということは窺える。そのまま道を南に進むと、商店街の街灯が違う形のものに変わるのだが、名前がわからない。ようやくたったひとつだけ、商店会名の書かれた街灯を見つけた。江戸道商店街と書かれている。営業店舗はまばら、というよりほとんど無く、この商店会がいまもあるのかさえ不明だ。名前をわざわざ外しいるのだとしたら、もう存在しないのかもしれない。よく街灯を維持してこれたものだと思う。こういう物は商店街の残り香のようなもので、ミステリアスな魅力を感じずにはいられない。
この日は多くの商店街を歩けたが、その分、ブログの更新は煩雑だった。その日のうちに更新するのは記憶が薄れないから良いことだとは思うが、疲れて帰ってきたあとにすべてをこなすのは、PCが苦手ではない僕でもなかなかしんどいものだ。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その002 寸借詐欺
その002 寸借詐欺 (2005年10月12日歩行)
歩行二日目の今日は、新御徒町・月島・春日に行く予定になっている。快晴とまではいかないが、青空が顔を見せた。秋に歩くことにして良かった。昨日よりは少し軽い足取りで家を出た。
東京の区内には、二車線以上の道路沿いの歩道上だけに屋根がついている商店街はまだけっこうあるのが、道路すべてを覆った全蓋型アーケードは少ない。
最初に向かった新御徒町駅の近くには、やや広い街路の上にしっかりとした屋根が据えてあるアーケード街がある。新御徒町駅は、つくばエクスプレスと大江戸線との乗り換えのためだけにできたような新しい駅で、商店街の成り立ちとはまったく関係がない。大名屋敷の名前から佐竹と名付けられたこの商店街そのものは、今では決して賑やかではないが、真ん中あたりの小型スーパーには地元の主婦やお年寄りらが買い物に来ていて、まだなんとか商業地として生きている感じがした。アーケードで建物全体が見えないのが惜しいくらい歴史ある店舗も多いし、周りには銅板張りの古い建物がいくつも残っている。城下町という意味では、このあたりを「今に残る下町」と言うんだな、と思った。
地下鉄に乗って、埋立地の月島へ移動する。そう、あの、もんじゃ焼きで有名な月島だ。僕はもんじゃは食べたいとは思わないというか、自分の食文化の外の食べ物だからあまり興味がない。もちろんこの日も、もんじゃ焼き店に入ったりはしなかった。もんじゃの店を除くと、まあまあ普通の生活向けの商店街だ。テント式の屋根を歩道に張り出せるようになっているのだが、店の視認性が落ちるから、これは一長一短だ。店そのものは古い造りのものが多くて、特に店舗の上のほう、店の名前が書いてある部分が面白いから、テントを出さないほうがレトロな風景がより良く見えると思う。そんなの、べつに売りにはしていないのだろうとは思うが。
商店街ではないけれど、月島のお隣・佃島にも行った。運河に囲まれた田の字型の路地に低層住宅が密集していて、佃煮店をはじめとした店舗もいくつかある。人ひとりが通れるだけの狭い路地は、港町の風情を残している。ほんの小さな地域だが、ひしめく家屋、井戸や小さなお社、すべてに生活の匂いが感じられる。雑貨店の前に設置されたゲームを一人で遊ぶ小学生がいた。これは意外と、以降もほとんど見かけなかった光景だ。橋でスケッチをしているおじさんや、船だまりの横のベンチで一人で昼食を食べるOLもいた。佃島そのものはこのようにのんびりとしているのだが、周囲は川べりに建った高層マンションに取り囲まれていて、長閑な船だまりの写真を撮ろうとすると必ずいくつかの高層マンションがフレームに入る。とても東京らしいけれど、ちょっと奇妙な風景でもある。
そして、これはしょうもないトラブルの話なのだが……。佃から月島駅に戻るとき、買い物袋を提げた若い主婦風の寸借詐欺に出会った。電話をかけたいので百円欲しいと言う。僕は怪しみながらも、一応百円を手渡した。案の定、電話ボックスに入ってもいっこうに電話をかけない。僕が「かけないなら返してくれ」と言ったら、あっさり百円を返した。場所は交番のすぐ近くだ。僕は、いったいここはどういう街なんだろろうと思った。もんじゃ目当ての一見さんが多いから成り立つんだろうか? ケチな犯罪(未遂)者がいるのは下町らしいと言えばらしいけど、ただ歩きたいだけの僕にとっては面白くもなんともない出来事だ。殴られたり文句を言われたりするよりは、よほどマシではあるのだが。
若干げんなりしつつ、大江戸線で春日(後楽園)駅へ移動した。この地域にはたくさんの商店会があるのだが、はっきり言って最初は調査不足で、一部しか歩けなかった。だから何度か追加で歩きに行っている。春日周辺はビルが多くなってきてはいるものの、佐竹や月島に負けないくらいのレトロな建物もまだたくさん残っている。この日はそういう古くからの街ばかり巡って来たから、ここに来るころには感覚が麻痺して、商店街の周りはこれで普通なのだとさえ思えてきた。おかげで、本当はもっと写真を撮っておくべきだったのに、大したこと無いと思ったスルーしてしまったものがあるのが今となっては惜しい。デジカメなんだから、現像代を考えてシャッターを遠慮する必要はないのだが、まだその感覚をつかめていなかったのもあった。
そのあと、北側の白山のほうに坂を登って行き、商店街旗もカラーブロック舗装も似たような雰囲気の白山下と京華通りをとぼとぼと一往復ほど歩いて、この日はおしまいにした。終始天気だけはよかったが、寸借詐欺の女のおかげでなんだか疲れてしまった。これからもこんな面倒があるのだろうか? 先々を考えると暗い気分になった。
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歩行二日目の今日は、新御徒町・月島・春日に行く予定になっている。快晴とまではいかないが、青空が顔を見せた。秋に歩くことにして良かった。昨日よりは少し軽い足取りで家を出た。
東京の区内には、二車線以上の道路沿いの歩道上だけに屋根がついている商店街はまだけっこうあるのが、道路すべてを覆った全蓋型アーケードは少ない。
最初に向かった新御徒町駅の近くには、やや広い街路の上にしっかりとした屋根が据えてあるアーケード街がある。新御徒町駅は、つくばエクスプレスと大江戸線との乗り換えのためだけにできたような新しい駅で、商店街の成り立ちとはまったく関係がない。大名屋敷の名前から佐竹と名付けられたこの商店街そのものは、今では決して賑やかではないが、真ん中あたりの小型スーパーには地元の主婦やお年寄りらが買い物に来ていて、まだなんとか商業地として生きている感じがした。アーケードで建物全体が見えないのが惜しいくらい歴史ある店舗も多いし、周りには銅板張りの古い建物がいくつも残っている。城下町という意味では、このあたりを「今に残る下町」と言うんだな、と思った。
地下鉄に乗って、埋立地の月島へ移動する。そう、あの、もんじゃ焼きで有名な月島だ。僕はもんじゃは食べたいとは思わないというか、自分の食文化の外の食べ物だからあまり興味がない。もちろんこの日も、もんじゃ焼き店に入ったりはしなかった。もんじゃの店を除くと、まあまあ普通の生活向けの商店街だ。テント式の屋根を歩道に張り出せるようになっているのだが、店の視認性が落ちるから、これは一長一短だ。店そのものは古い造りのものが多くて、特に店舗の上のほう、店の名前が書いてある部分が面白いから、テントを出さないほうがレトロな風景がより良く見えると思う。そんなの、べつに売りにはしていないのだろうとは思うが。
商店街ではないけれど、月島のお隣・佃島にも行った。運河に囲まれた田の字型の路地に低層住宅が密集していて、佃煮店をはじめとした店舗もいくつかある。人ひとりが通れるだけの狭い路地は、港町の風情を残している。ほんの小さな地域だが、ひしめく家屋、井戸や小さなお社、すべてに生活の匂いが感じられる。雑貨店の前に設置されたゲームを一人で遊ぶ小学生がいた。これは意外と、以降もほとんど見かけなかった光景だ。橋でスケッチをしているおじさんや、船だまりの横のベンチで一人で昼食を食べるOLもいた。佃島そのものはこのようにのんびりとしているのだが、周囲は川べりに建った高層マンションに取り囲まれていて、長閑な船だまりの写真を撮ろうとすると必ずいくつかの高層マンションがフレームに入る。とても東京らしいけれど、ちょっと奇妙な風景でもある。
そして、これはしょうもないトラブルの話なのだが……。佃から月島駅に戻るとき、買い物袋を提げた若い主婦風の寸借詐欺に出会った。電話をかけたいので百円欲しいと言う。僕は怪しみながらも、一応百円を手渡した。案の定、電話ボックスに入ってもいっこうに電話をかけない。僕が「かけないなら返してくれ」と言ったら、あっさり百円を返した。場所は交番のすぐ近くだ。僕は、いったいここはどういう街なんだろろうと思った。もんじゃ目当ての一見さんが多いから成り立つんだろうか? ケチな犯罪(未遂)者がいるのは下町らしいと言えばらしいけど、ただ歩きたいだけの僕にとっては面白くもなんともない出来事だ。殴られたり文句を言われたりするよりは、よほどマシではあるのだが。
若干げんなりしつつ、大江戸線で春日(後楽園)駅へ移動した。この地域にはたくさんの商店会があるのだが、はっきり言って最初は調査不足で、一部しか歩けなかった。だから何度か追加で歩きに行っている。春日周辺はビルが多くなってきてはいるものの、佐竹や月島に負けないくらいのレトロな建物もまだたくさん残っている。この日はそういう古くからの街ばかり巡って来たから、ここに来るころには感覚が麻痺して、商店街の周りはこれで普通なのだとさえ思えてきた。おかげで、本当はもっと写真を撮っておくべきだったのに、大したこと無いと思ったスルーしてしまったものがあるのが今となっては惜しい。デジカメなんだから、現像代を考えてシャッターを遠慮する必要はないのだが、まだその感覚をつかめていなかったのもあった。
そのあと、北側の白山のほうに坂を登って行き、商店街旗もカラーブロック舗装も似たような雰囲気の白山下と京華通りをとぼとぼと一往復ほど歩いて、この日はおしまいにした。終始天気だけはよかったが、寸借詐欺の女のおかげでなんだか疲れてしまった。これからもこんな面倒があるのだろうか? 先々を考えると暗い気分になった。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その001 初歩行
その001 初歩行 (2005年10月11日歩行)
朝十時、八王子の自宅を出る。天気は曇り。部屋のドアに鍵をかけて階段を降りる時、あまり張り切っていない自分に気づいた。誰の依頼でもなく、自分がどんな商店街があるのか知りたいという好奇心だけで、仕事もせず歩くのだ。いったい僕は何をやっているんだ、という気分も正直あった。もちろん高揚もしていた。誰も踏み込んでいない領域への、小さな一歩だ。
新宿駅西口からバスに乗る。平日昼間のバスは久しぶりだ。十数分ほど揺られて、繁華街からかなり離れた、新宿七丁目で下車する。見回すと、大通り沿いにマンションと二階建ての店舗があるだけ。こんなところも新宿なんだなと思う。正真正銘「新宿」と名がついているのに、人々の新宿観の中にはまったく登場しない場所だろう。
手提げ鞄を肩に掛け、右手にカメラ、左手には黒いプラスチック製のクリップボードを持つ。クリップに自宅で印刷した地図を挟んで、赤ボールペンでメモを取れるようにしている。こんな姿で商店街歩きを開始した。しかし実際、メモは写真に代用されて、ほとんどまともな記述はしなかった。買ったばかりの銀色のデジタルカメラは、珍しい縦長の形で、一見カメラに見えない。
新宿七丁目の商店街は寂しかった。入口に商店街名が書かれていなかったら商店街とは認識できない。表通りから分岐し、マンションにはさまれた坂道を下ると、谷底近くに店舗がぽつぽつある。これも新宿、これも東京の商店街。
すぐ近くの「まねき通り」は、少しまともな商店街だった。二階建ての店舗が連なり、スーパーもある。ちょうど昼どきで、昼食を求めるサラリーマンと学生が多く出歩いている。そこにいる人々の日常の消費風景に出逢い、それをこっそりと観察するのは、なぜかわからないが楽しい。ふだん他の人の買い物に接する機会が乏しいせいかもしれないし、あるいはまったく別の文化に触れている気分になるからだろうか。僕も精肉店で揚げ物を買い、刑場跡の公園で昼食にした。もちろん僕だって、普段地元でこんなことはしない。
いったん新宿の繁華街に戻って、パークシティ伊勢丹の東にある三番街を歩く。ほとんど飲食店街なのだが、三光町市場という建物があるのが過去の商店街の姿を辛うじて思い起こさせる(二〇一二年現在はマンションになっている)。僕が小さい頃にも、内部通路を共有して複数の店子が入る市場型の店舗が近所にあった。コンクリートの床で、どの部分も薄暗かった。片隅がゲームコーナーになっていて、そこで遊んだ記憶がある。一九八〇年代頃まで、そんな建物は日本全国あちこちにあったのだろうと思う。
市場の出入口にずっとおじさんがいてこちらを見ていたため、写真はほとんど撮れなかった。諦めてまたバスに乗り、文字通りの坂の町・坂町を歩いた。坂町には数軒のみが加盟するという商店会があるのだが、ただ歩いただけではその存在はまったくわからない。商店会があるからといって現地にそれとわかるもの、アーチや街灯やカラーブロック舗装といった施設があるとは限らないのだ。だから、すべての商店街を商店会単位で網羅するのは辛いし、この時点ではやるつもりもなかった。
坂町の坂を登って丘を越え、荒木町に向かう。四谷三丁目駅近くのちょっとした飲食店街だ。僕は酒は嫌いではないが、飲み屋に行く事はほとんどない。主な理由は、好き嫌いがあるのと、金がないからだ。それでも、ニョキニョキと出るスナックの看板を見るのは嫌いではない。キラキラチカチカした性サービス店と違い、飲み屋の外観は上品だと思う。静かに内側にそれぞれの世界を築いている感じが素敵だ。八百屋で個性を出すのは難しいが、飲食店はそれができるのが良い。
荒木町はアップダウンのある地形と複雑な路地が魅力的で、これは池を埋め立てて平地を作ったためでもあるのだが、この時はまだそんなことは知らなかった。ただただ、古い階段坂に見とれて、シャッターを切っていた。歩いて面白い地形の前では、商店街の写真はなかばどうでもよくなってしまう。
足と目に若干の疲れを感じながら、さらにそのまま四谷の南、若葉の谷地にある商店街へと降りていく。この谷底は、かつて鮫河橋というスラムのような場所だったとのことだが、やはり歩いている時はまったく知らなかったし、べつにそこまで怪しい感じもしなかった。むしろ谷底というのは落ち着く地形ですらある。
若葉も商店街としては寂しかったが、地形の面白さは荒木町と共通していた。商店街の通りは谷に沿っていて、両側に坂道が多数伸びている。昔からの商店がぽつぽつとやっているか閉めているかという風景で、擁壁の上にはいくつかの寺院があり、あとは小さな住宅がひしめいている。山手線の内側で、都心のオフィス街のすぐ近くにこんな場所があるのは、東京の良いところだと僕は思う。もう少し商店街が賑わっていたら、もっともっと生活感とギャップが出て、雰囲気が良いのだが。
この日は初日ということで、ゆっくり歩きすぎてしまったようだ。もう日が暮れかかっているのだが、品川行きの都バスに乗って、最後の目的地・白金へ向かう。上空に首都高が覆いかぶさる古川(渋谷川)沿いに、商店街の入口アーチが見えた。夕方とあって、買い物客が多く行き来している。バスを降りて商店街に入っていくと、薄暗がりのなか、店の灯りがまぶしい。若干マンションが進出しているけれど、個人商店で生活食料品を買うことができる、ごく商店街らしい商店街だ。
白金と言えば高級住宅地だと思いがちだが、それは丘の上の話。この川沿いはせせこましく住宅と工場が立ち並び、見事なまでに庶民的な街が広がっている。それが味わえたのは収穫だった。初日にしていきなりさまざまな東京の姿を目にしたが、この日の中でいちばん賑わった商店街に最後に巡りあわせて、良い気分で帰路に就くことができた。家に到着するともう真っ暗だった。
自宅で夕食を摂ったあと、寝るまでのあいだに急いでブログを書いた。「東京の商店街を歩こう」というブログタイトルにあまり深い意味はない。ただ、「東京」と「商店街」というワードが入っていれば良かったし、散策をそこまで勧めようという意図もなかった。レイアウトは今とまったく同じで、縦長の写真の右に簡単なデータを添えて、下に本文を数行書いただけだ。僕は悩んだ末に、ですます調で本文を書いた。そしてその文体は200記事くらい書いたところで止めた。寂れた商店街のことを書くには、丁寧な口調ではあまりに白々しかったのだ。
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朝十時、八王子の自宅を出る。天気は曇り。部屋のドアに鍵をかけて階段を降りる時、あまり張り切っていない自分に気づいた。誰の依頼でもなく、自分がどんな商店街があるのか知りたいという好奇心だけで、仕事もせず歩くのだ。いったい僕は何をやっているんだ、という気分も正直あった。もちろん高揚もしていた。誰も踏み込んでいない領域への、小さな一歩だ。
新宿駅西口からバスに乗る。平日昼間のバスは久しぶりだ。十数分ほど揺られて、繁華街からかなり離れた、新宿七丁目で下車する。見回すと、大通り沿いにマンションと二階建ての店舗があるだけ。こんなところも新宿なんだなと思う。正真正銘「新宿」と名がついているのに、人々の新宿観の中にはまったく登場しない場所だろう。
手提げ鞄を肩に掛け、右手にカメラ、左手には黒いプラスチック製のクリップボードを持つ。クリップに自宅で印刷した地図を挟んで、赤ボールペンでメモを取れるようにしている。こんな姿で商店街歩きを開始した。しかし実際、メモは写真に代用されて、ほとんどまともな記述はしなかった。買ったばかりの銀色のデジタルカメラは、珍しい縦長の形で、一見カメラに見えない。
新宿七丁目の商店街は寂しかった。入口に商店街名が書かれていなかったら商店街とは認識できない。表通りから分岐し、マンションにはさまれた坂道を下ると、谷底近くに店舗がぽつぽつある。これも新宿、これも東京の商店街。
すぐ近くの「まねき通り」は、少しまともな商店街だった。二階建ての店舗が連なり、スーパーもある。ちょうど昼どきで、昼食を求めるサラリーマンと学生が多く出歩いている。そこにいる人々の日常の消費風景に出逢い、それをこっそりと観察するのは、なぜかわからないが楽しい。ふだん他の人の買い物に接する機会が乏しいせいかもしれないし、あるいはまったく別の文化に触れている気分になるからだろうか。僕も精肉店で揚げ物を買い、刑場跡の公園で昼食にした。もちろん僕だって、普段地元でこんなことはしない。
いったん新宿の繁華街に戻って、パークシティ伊勢丹の東にある三番街を歩く。ほとんど飲食店街なのだが、三光町市場という建物があるのが過去の商店街の姿を辛うじて思い起こさせる(二〇一二年現在はマンションになっている)。僕が小さい頃にも、内部通路を共有して複数の店子が入る市場型の店舗が近所にあった。コンクリートの床で、どの部分も薄暗かった。片隅がゲームコーナーになっていて、そこで遊んだ記憶がある。一九八〇年代頃まで、そんな建物は日本全国あちこちにあったのだろうと思う。
市場の出入口にずっとおじさんがいてこちらを見ていたため、写真はほとんど撮れなかった。諦めてまたバスに乗り、文字通りの坂の町・坂町を歩いた。坂町には数軒のみが加盟するという商店会があるのだが、ただ歩いただけではその存在はまったくわからない。商店会があるからといって現地にそれとわかるもの、アーチや街灯やカラーブロック舗装といった施設があるとは限らないのだ。だから、すべての商店街を商店会単位で網羅するのは辛いし、この時点ではやるつもりもなかった。
坂町の坂を登って丘を越え、荒木町に向かう。四谷三丁目駅近くのちょっとした飲食店街だ。僕は酒は嫌いではないが、飲み屋に行く事はほとんどない。主な理由は、好き嫌いがあるのと、金がないからだ。それでも、ニョキニョキと出るスナックの看板を見るのは嫌いではない。キラキラチカチカした性サービス店と違い、飲み屋の外観は上品だと思う。静かに内側にそれぞれの世界を築いている感じが素敵だ。八百屋で個性を出すのは難しいが、飲食店はそれができるのが良い。
荒木町はアップダウンのある地形と複雑な路地が魅力的で、これは池を埋め立てて平地を作ったためでもあるのだが、この時はまだそんなことは知らなかった。ただただ、古い階段坂に見とれて、シャッターを切っていた。歩いて面白い地形の前では、商店街の写真はなかばどうでもよくなってしまう。
足と目に若干の疲れを感じながら、さらにそのまま四谷の南、若葉の谷地にある商店街へと降りていく。この谷底は、かつて鮫河橋というスラムのような場所だったとのことだが、やはり歩いている時はまったく知らなかったし、べつにそこまで怪しい感じもしなかった。むしろ谷底というのは落ち着く地形ですらある。
若葉も商店街としては寂しかったが、地形の面白さは荒木町と共通していた。商店街の通りは谷に沿っていて、両側に坂道が多数伸びている。昔からの商店がぽつぽつとやっているか閉めているかという風景で、擁壁の上にはいくつかの寺院があり、あとは小さな住宅がひしめいている。山手線の内側で、都心のオフィス街のすぐ近くにこんな場所があるのは、東京の良いところだと僕は思う。もう少し商店街が賑わっていたら、もっともっと生活感とギャップが出て、雰囲気が良いのだが。
この日は初日ということで、ゆっくり歩きすぎてしまったようだ。もう日が暮れかかっているのだが、品川行きの都バスに乗って、最後の目的地・白金へ向かう。上空に首都高が覆いかぶさる古川(渋谷川)沿いに、商店街の入口アーチが見えた。夕方とあって、買い物客が多く行き来している。バスを降りて商店街に入っていくと、薄暗がりのなか、店の灯りがまぶしい。若干マンションが進出しているけれど、個人商店で生活食料品を買うことができる、ごく商店街らしい商店街だ。
白金と言えば高級住宅地だと思いがちだが、それは丘の上の話。この川沿いはせせこましく住宅と工場が立ち並び、見事なまでに庶民的な街が広がっている。それが味わえたのは収穫だった。初日にしていきなりさまざまな東京の姿を目にしたが、この日の中でいちばん賑わった商店街に最後に巡りあわせて、良い気分で帰路に就くことができた。家に到着するともう真っ暗だった。
自宅で夕食を摂ったあと、寝るまでのあいだに急いでブログを書いた。「東京の商店街を歩こう」というブログタイトルにあまり深い意味はない。ただ、「東京」と「商店街」というワードが入っていれば良かったし、散策をそこまで勧めようという意図もなかった。レイアウトは今とまったく同じで、縦長の写真の右に簡単なデータを添えて、下に本文を数行書いただけだ。僕は悩んだ末に、ですます調で本文を書いた。そしてその文体は200記事くらい書いたところで止めた。寂れた商店街のことを書くには、丁寧な口調ではあまりに白々しかったのだ。
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) その000 商店街を歩き出すまで
その000 商店街を歩き出すまで
商店街のない街に育った僕にとって、商店街は異世界だった。
一九九八年、僕は進学のために上京した。十八歳だった。新宿副都心の西側・方南通りにあった学校の周辺にはいくつもの商店街があった。賑わったところもそうでないものもあったが、東京という日本で最大にして最先端の都市に、いまだ膨大な数のさまざまな商店街があるというのは、とても大きな驚きだった。
僕は名古屋市で生まれ育った。名古屋あたりは戦後すぐに道路が便利になりすぎたせいか、中心部以外の駅前商業地がさほど開発されなかったようだ。古くからの商業地であった城下町や旧道の商店街のほとんどは、すでに勢いを失っている。だから僕は、東京に来て初めて、商店街で生活の買い物をする人々を見ることができたようなものだ。学校の空き時間に、一流のデザインと技術の粋である副都心のビル群を眺めるより、生活と密着した商店街を見るほうが、僕にとっては刺激的だった。商店街を歩くことは、異世界を見聞するようなものだったのだ。
それから東京のさまざまな場所を少しずつ歩いているうちに、東京のどこにどんな商店街があるのか知りたいと思い始めた。しかし探しても探しても、そんなことを書いた本は出版されていないようだったし、ネット全盛期(二〇〇四年頃)になっても、商店街を「東京」という単位でまとめるサイトは存在しなかった。商店街の数が多いから個人で巡るサイトはなくて当然かもしれないが、区や都の組合のサイトですらまだ大した内容は載っていなかった。
東京という、超有名な大都市にこんなにもある「商店街」というものが、こんなにも埋没している。そんな、現在における商店街の存在自体が、とても不思議で興味深いと思った。そうなるとますます知りたくなった。今見ておかなければなくなってしまう商店街だってきっとあるだろう。
「早く、誰か東京の商店街を巡り歩いてレポートしてくれ!」と、僕はネットにつながったモニターの前で思い続けていた。自分で歩けばいいとみんなは思うかもしれないが、僕は商店街そのものが好きなのではなく、どこにどんな商店街があるのか知りたいだけなのだ。しかも完全な余所者だ。そんな自分が東京の商店街について書いたところで、迷惑なだけではないかという思いがあった。かといって、どこにも公開せず完全に自分だけのために歩くほどには、モチベーションが上がらなかった。ついでに言うと、僕は航空測量業の下請けのパートという身分であり、貧乏すぎて余裕がないという事情もあった。
しかし結局は、自分で歩くことにした。そこに何か大きなきっかけがあったわけではない。ただ、自分がやらなければ他に誰もやらないだろうというのが、なんとなく確信できたのだ。
決心はしたものの、どこに商店街があるのか正確なことは何もわからないので、ひとまず地図から判断することにした。僕は地図が好きだ。小学生の頃から、行ったことのない県の道路地図をわざわざ観賞用にいくつも買っていた。小中学校の休み時間にやることがない時には、地図帳を眺めて過ごしていた。
地図は比較的価格が高いので、上京して一人暮らしを始めてからは新しい地図を買うことを控えていたけれど、久しぶりに大きな書店の地図売り場に行ってみた。何冊も出版されている東京地図の中に、商業地が色分けされている地図帳があった。しかも縮尺が七〇〇〇分の一だ。これなら、商店会組織単位の把握は無理でも、商店街があるらしい地域は比較的簡単に絞れると思い、即座に購入した。それに加えて、ゼンリンの地図サイトで、商店街っぽい細かい家屋が集中している箇所を探して、地図にメモした。表計算ソフトで二十三区内の歩きたい地域をリスト化し終えたのが、二〇〇五年の夏のことだった。
でももちろん平日は仕事があり、日曜は閉まっている店が多いとなると、土曜しか歩けないことになってしまう。これで天気なんかを考慮しているとなかなか進まないことになる。だから僕は思い切って、気候の良い秋に仕事を一ヶ月辞め(パートだから「休み」ではない!)、平日毎日歩くことにした。幸い、辞めるなという人もいなかったし戻って来るなという人もいなかった。そんな職場だった。
僕はとても収入が少なく貯金もあるとは言えなかったので、たとえ一ヶ月間だとしても仕事を辞めるのはかなりの決心だった。本を書くための取材で休むならまだ恰好もつくけど、とにかくただ知りたいことがあるだけでひと月休むんだから、相当バカな行為だ。バカンスで一ヶ月休めるというどこかの国ならまだしも、仕事大好きなこの日本でそれは無鉄砲というもの、という自覚もある。でも、そうでもしなければ得られない貴重な体験と情報であるのも、また確かだった。
歩く場所を決めてからも、成果をネットで公開するべきかどうか、まだ悩んでいた。僕は東京生まれでも東京育ちでもない。商店街の中で暮らしているわけでもない。商店街大好き人間でもない。自分や親が店をやっているわけでもない。そして文章も写真もうまくはない。本来書くべきなのは、商店街が好きでたまらない人、または商店街の内部の人、あるいはせめて東京で育った人、ちゃんとしたライター、もしくはろくでもないライター、商店街アイドル的な地位を目指す人……とかまあ、とにかくそういう「書ける人」「とても書きたい人」ではないだろうか? 最初にできた物がショボいと、後に続く人のモチベーションが下がるし、それが商店街に悪い影響を及ぼすことだってある。たくさんの商店街を歩いた結果として、商店街やそのファンから嫌われたのではやりきれない。
僕は商店街そのものはもちろん嫌いではないが、特別好きかと聞かれるとそうでもない。知らない人と話すことすら、得意ではない。つまり文字通りの「人見知り」で、ただ東京のどこにどんな商店街があるのか知りたいだけだ。商店街の存在に異文化的な興味があるのであって、商店街の中身にどっぷり惹かれているのとはちょっと違う。そういう自分が、商店街についてあれこれ書いても、「ああ、この人は商店街が好きで書いてるわけじゃないんだなあ」というのが滲み出てしまう。それは客観的な記録としては許容範囲だとは思うけど、読者に提供する読み物としてはつまらないことこの上ないのではないか。
(現に今作り上げられた自分のブログ「東京の商店街を歩こう」には、記事を読んでも面白いことは何一つ書いてないと思う。そもそもわざと面白おかしく書こうとは微塵も思っていない。「東京にそんな場所があって、いままでほとんど意識されていなかった」ことそのものが僕には面白いのだ。)
などと散々考えたが、ただ歩くだけでは張り合いがないので、一応ブログにまとめることにした。ブログという形式にしたのは、流行に乗ったわけではなくて、カテゴリやタグを使って簡易データベース的に使ってもらえると思ったからだ。「カテゴリ」や「タグ」を使って、ある区だけを閲覧したり、ある特徴(アーケードがあるとか)だけ抜き出したりということが比較的容易に実現できるのはありがたい仕組みだ。ただし店の中身については、面倒なので書かないことにした。僕は商売関係のトラブルは大嫌いだし、金にもならないのにリスクを引き受けるのは嫌だ。
一ヶ月の間に歩く場所は、各区からバランス良く選んだ。僕はまだそんなに都内のいろんな場所を歩いたわけではないから、とにかく最初は広く歩いてみなければいけない。グーグルストリートビューなんて便利なものはまだなかったから、歩くまで実際の様子はまったくわからない。賑わったところだけを抽出するなどということも不可能なのだ。だからまずは満遍なく歩いてみることにした。
また毎日となると疲労もたまるので、足に負担をかけすぎない行程を組むことも心がけた。もちろん帰ってからブログを書く時間も必要だった。溜めてしまうと更新自体が面倒になってしまうから、なるべくその日のうちにアウトプットしたかった。
だいたい日程を組み終わった頃には十月に入っていた。仕事をしないで歩行できるのは十月十一日から十一月十日までだ。
この商店街歩きのための唯一の買い物として、デジタルカメラが必要だった。僕は秋葉原へ出かけた。八王子に住む僕がなぜ秋葉原かと言えば、型落ち品を安く手に入れるためだ。いくつかの店を覗いて、最終的には某電気店のアウトレットコーナーで、"FinePix F601"というコンパクトデジカメを購入した。たしか二万円弱だった。店員は内蔵メモリがあると説明したが、それは嘘、というか勘違いで、記録にはスマートメディアが必要だった。幸いこのカメラは以降四年近く使い続けることができ、目立つ故障もなかった。ひとつ残念なことに、商店街歩きを開始するまでに、試し撮りをする時間がほとんど取れなかった。
とにかくこうして僕は、二〇〇五年の秋、需要なき東京商店街歩行に出発した。これから全ての歩行を振り返っていくので、お付き合い願いたい。
※なぜ七年も経った今になってこんな文章を書いているのか。それは、これだけの企画を成し遂げたんだから、ちょっとは「自分」を出して語ったっていいではないか、と思ったからだ。データベース的に作られたブログの各記事は、はっきり言って僕もつまらないと思う。かといってあそこに僕自身を流し込んでいったら、都区内の商店街についてまとめたというカタログ的な意味は薄くなってしまう。つまり、僕が歩きながら考えたことや、東京への思いは、今のところまったく宙に浮いている。それをここに書き残しておきたいのだ。読者がどれだけいるかわからないが、すべての歩行が終わった今、とにかく好きに書きたくなったのだ!
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商店街のない街に育った僕にとって、商店街は異世界だった。
一九九八年、僕は進学のために上京した。十八歳だった。新宿副都心の西側・方南通りにあった学校の周辺にはいくつもの商店街があった。賑わったところもそうでないものもあったが、東京という日本で最大にして最先端の都市に、いまだ膨大な数のさまざまな商店街があるというのは、とても大きな驚きだった。
僕は名古屋市で生まれ育った。名古屋あたりは戦後すぐに道路が便利になりすぎたせいか、中心部以外の駅前商業地がさほど開発されなかったようだ。古くからの商業地であった城下町や旧道の商店街のほとんどは、すでに勢いを失っている。だから僕は、東京に来て初めて、商店街で生活の買い物をする人々を見ることができたようなものだ。学校の空き時間に、一流のデザインと技術の粋である副都心のビル群を眺めるより、生活と密着した商店街を見るほうが、僕にとっては刺激的だった。商店街を歩くことは、異世界を見聞するようなものだったのだ。
それから東京のさまざまな場所を少しずつ歩いているうちに、東京のどこにどんな商店街があるのか知りたいと思い始めた。しかし探しても探しても、そんなことを書いた本は出版されていないようだったし、ネット全盛期(二〇〇四年頃)になっても、商店街を「東京」という単位でまとめるサイトは存在しなかった。商店街の数が多いから個人で巡るサイトはなくて当然かもしれないが、区や都の組合のサイトですらまだ大した内容は載っていなかった。
東京という、超有名な大都市にこんなにもある「商店街」というものが、こんなにも埋没している。そんな、現在における商店街の存在自体が、とても不思議で興味深いと思った。そうなるとますます知りたくなった。今見ておかなければなくなってしまう商店街だってきっとあるだろう。
「早く、誰か東京の商店街を巡り歩いてレポートしてくれ!」と、僕はネットにつながったモニターの前で思い続けていた。自分で歩けばいいとみんなは思うかもしれないが、僕は商店街そのものが好きなのではなく、どこにどんな商店街があるのか知りたいだけなのだ。しかも完全な余所者だ。そんな自分が東京の商店街について書いたところで、迷惑なだけではないかという思いがあった。かといって、どこにも公開せず完全に自分だけのために歩くほどには、モチベーションが上がらなかった。ついでに言うと、僕は航空測量業の下請けのパートという身分であり、貧乏すぎて余裕がないという事情もあった。
しかし結局は、自分で歩くことにした。そこに何か大きなきっかけがあったわけではない。ただ、自分がやらなければ他に誰もやらないだろうというのが、なんとなく確信できたのだ。
決心はしたものの、どこに商店街があるのか正確なことは何もわからないので、ひとまず地図から判断することにした。僕は地図が好きだ。小学生の頃から、行ったことのない県の道路地図をわざわざ観賞用にいくつも買っていた。小中学校の休み時間にやることがない時には、地図帳を眺めて過ごしていた。
地図は比較的価格が高いので、上京して一人暮らしを始めてからは新しい地図を買うことを控えていたけれど、久しぶりに大きな書店の地図売り場に行ってみた。何冊も出版されている東京地図の中に、商業地が色分けされている地図帳があった。しかも縮尺が七〇〇〇分の一だ。これなら、商店会組織単位の把握は無理でも、商店街があるらしい地域は比較的簡単に絞れると思い、即座に購入した。それに加えて、ゼンリンの地図サイトで、商店街っぽい細かい家屋が集中している箇所を探して、地図にメモした。表計算ソフトで二十三区内の歩きたい地域をリスト化し終えたのが、二〇〇五年の夏のことだった。
でももちろん平日は仕事があり、日曜は閉まっている店が多いとなると、土曜しか歩けないことになってしまう。これで天気なんかを考慮しているとなかなか進まないことになる。だから僕は思い切って、気候の良い秋に仕事を一ヶ月辞め(パートだから「休み」ではない!)、平日毎日歩くことにした。幸い、辞めるなという人もいなかったし戻って来るなという人もいなかった。そんな職場だった。
僕はとても収入が少なく貯金もあるとは言えなかったので、たとえ一ヶ月間だとしても仕事を辞めるのはかなりの決心だった。本を書くための取材で休むならまだ恰好もつくけど、とにかくただ知りたいことがあるだけでひと月休むんだから、相当バカな行為だ。バカンスで一ヶ月休めるというどこかの国ならまだしも、仕事大好きなこの日本でそれは無鉄砲というもの、という自覚もある。でも、そうでもしなければ得られない貴重な体験と情報であるのも、また確かだった。
歩く場所を決めてからも、成果をネットで公開するべきかどうか、まだ悩んでいた。僕は東京生まれでも東京育ちでもない。商店街の中で暮らしているわけでもない。商店街大好き人間でもない。自分や親が店をやっているわけでもない。そして文章も写真もうまくはない。本来書くべきなのは、商店街が好きでたまらない人、または商店街の内部の人、あるいはせめて東京で育った人、ちゃんとしたライター、もしくはろくでもないライター、商店街アイドル的な地位を目指す人……とかまあ、とにかくそういう「書ける人」「とても書きたい人」ではないだろうか? 最初にできた物がショボいと、後に続く人のモチベーションが下がるし、それが商店街に悪い影響を及ぼすことだってある。たくさんの商店街を歩いた結果として、商店街やそのファンから嫌われたのではやりきれない。
僕は商店街そのものはもちろん嫌いではないが、特別好きかと聞かれるとそうでもない。知らない人と話すことすら、得意ではない。つまり文字通りの「人見知り」で、ただ東京のどこにどんな商店街があるのか知りたいだけだ。商店街の存在に異文化的な興味があるのであって、商店街の中身にどっぷり惹かれているのとはちょっと違う。そういう自分が、商店街についてあれこれ書いても、「ああ、この人は商店街が好きで書いてるわけじゃないんだなあ」というのが滲み出てしまう。それは客観的な記録としては許容範囲だとは思うけど、読者に提供する読み物としてはつまらないことこの上ないのではないか。
(現に今作り上げられた自分のブログ「東京の商店街を歩こう」には、記事を読んでも面白いことは何一つ書いてないと思う。そもそもわざと面白おかしく書こうとは微塵も思っていない。「東京にそんな場所があって、いままでほとんど意識されていなかった」ことそのものが僕には面白いのだ。)
などと散々考えたが、ただ歩くだけでは張り合いがないので、一応ブログにまとめることにした。ブログという形式にしたのは、流行に乗ったわけではなくて、カテゴリやタグを使って簡易データベース的に使ってもらえると思ったからだ。「カテゴリ」や「タグ」を使って、ある区だけを閲覧したり、ある特徴(アーケードがあるとか)だけ抜き出したりということが比較的容易に実現できるのはありがたい仕組みだ。ただし店の中身については、面倒なので書かないことにした。僕は商売関係のトラブルは大嫌いだし、金にもならないのにリスクを引き受けるのは嫌だ。
一ヶ月の間に歩く場所は、各区からバランス良く選んだ。僕はまだそんなに都内のいろんな場所を歩いたわけではないから、とにかく最初は広く歩いてみなければいけない。グーグルストリートビューなんて便利なものはまだなかったから、歩くまで実際の様子はまったくわからない。賑わったところだけを抽出するなどということも不可能なのだ。だからまずは満遍なく歩いてみることにした。
また毎日となると疲労もたまるので、足に負担をかけすぎない行程を組むことも心がけた。もちろん帰ってからブログを書く時間も必要だった。溜めてしまうと更新自体が面倒になってしまうから、なるべくその日のうちにアウトプットしたかった。
だいたい日程を組み終わった頃には十月に入っていた。仕事をしないで歩行できるのは十月十一日から十一月十日までだ。
この商店街歩きのための唯一の買い物として、デジタルカメラが必要だった。僕は秋葉原へ出かけた。八王子に住む僕がなぜ秋葉原かと言えば、型落ち品を安く手に入れるためだ。いくつかの店を覗いて、最終的には某電気店のアウトレットコーナーで、"FinePix F601"というコンパクトデジカメを購入した。たしか二万円弱だった。店員は内蔵メモリがあると説明したが、それは嘘、というか勘違いで、記録にはスマートメディアが必要だった。幸いこのカメラは以降四年近く使い続けることができ、目立つ故障もなかった。ひとつ残念なことに、商店街歩きを開始するまでに、試し撮りをする時間がほとんど取れなかった。
とにかくこうして僕は、二〇〇五年の秋、需要なき東京商店街歩行に出発した。これから全ての歩行を振り返っていくので、お付き合い願いたい。
※なぜ七年も経った今になってこんな文章を書いているのか。それは、これだけの企画を成し遂げたんだから、ちょっとは「自分」を出して語ったっていいではないか、と思ったからだ。データベース的に作られたブログの各記事は、はっきり言って僕もつまらないと思う。かといってあそこに僕自身を流し込んでいったら、都区内の商店街についてまとめたというカタログ的な意味は薄くなってしまう。つまり、僕が歩きながら考えたことや、東京への思いは、今のところまったく宙に浮いている。それをここに書き残しておきたいのだ。読者がどれだけいるかわからないが、すべての歩行が終わった今、とにかく好きに書きたくなったのだ!
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東京23区・商店街歩行見聞録(仮) もくじ
志歌寿ケイトが東京23区内の商店街をどのように全部歩いたか、紀行文のようにまとめていくものです。ここでは商店街の具体名はなるべく出しませんが、そのぶん好きなように書いていく予定です。
さほど面白い出来事はないのですが、一応現在のところ23区の商店街を全部歩いた人間は他にいないと思いますので、そこそこ貴重な体験記録ではあると自負しております。ご意見などあればありがたいです。どうにか紙媒体や電子書籍のようにまとめられたらとも思っています。
1記事が1日分の歩行に対応します。更新は不定期です。ここでの写真はモノクロ加工等を施しています。
その000 商店街を歩き出すまで (2012/09/11掲載)
その001 初歩行 (2012/09/11掲載)
その002 寸借詐欺 (2012/09/12掲載)
その003 都電沿線 (2012/09/12掲載)
その004 猫の喧嘩 (2012/09/13掲載)
その005 砂町 (2012/09/13掲載)
その006 雨の商店街 (2012/09/14掲載)
その007 おやつコロッケ (2012/09/14掲載)
その008 軌道と古道 (2012/09/15掲載)
その009 もったいない (2012/09/15掲載)
その010 僕の懐かしい商店街 (2012/09/17掲載)
その011 旧東海道 (2012/09/17掲載)
その012 掛け合わせ (2012/09/18掲載)
その013 東京、長崎 (2012/09/18掲載)
その014 商店街の明るさ (2012/09/19掲載)
その015 一駅一商店会 (2012/09/19掲載)
その016 谷底、谷底、たまに尾根 (2012/09/20掲載)
その017 昭和 (2012/09/20掲載)
その018 旧川越街道 (2012/09/21掲載)
その019 現代の生活を記憶する (2012/09/23掲載)
その020 知られざる池袋 (2012/11/05掲載)
※写真はイメージ的なもので、挿入箇所の前後の文章の場所と繋がらない場合があります。
※お問い合わせ・志歌寿ケイトについてはこちらまで。
(書き方は悩みましたが、わりと堅い感じに書いています。何とでも書けるので逆に難しいですね・・・。「他の文体でやってみて」というお話にも応じます。飽きたら途中からまったく違う文体にするかもしれません(笑)。今のところ実験的に進めていますが、とにかくなんとか最後まで書ききりたいです。)
さほど面白い出来事はないのですが、一応現在のところ23区の商店街を全部歩いた人間は他にいないと思いますので、そこそこ貴重な体験記録ではあると自負しております。ご意見などあればありがたいです。どうにか紙媒体や電子書籍のようにまとめられたらとも思っています。
1記事が1日分の歩行に対応します。更新は不定期です。ここでの写真はモノクロ加工等を施しています。
その000 商店街を歩き出すまで (2012/09/11掲載)
その001 初歩行 (2012/09/11掲載)
その002 寸借詐欺 (2012/09/12掲載)
その003 都電沿線 (2012/09/12掲載)
その004 猫の喧嘩 (2012/09/13掲載)
その005 砂町 (2012/09/13掲載)
その006 雨の商店街 (2012/09/14掲載)
その007 おやつコロッケ (2012/09/14掲載)
その008 軌道と古道 (2012/09/15掲載)
その009 もったいない (2012/09/15掲載)
その010 僕の懐かしい商店街 (2012/09/17掲載)
その011 旧東海道 (2012/09/17掲載)
その012 掛け合わせ (2012/09/18掲載)
その013 東京、長崎 (2012/09/18掲載)
その014 商店街の明るさ (2012/09/19掲載)
その015 一駅一商店会 (2012/09/19掲載)
その016 谷底、谷底、たまに尾根 (2012/09/20掲載)
その017 昭和 (2012/09/20掲載)
その018 旧川越街道 (2012/09/21掲載)
その019 現代の生活を記憶する (2012/09/23掲載)
その020 知られざる池袋 (2012/11/05掲載)
※写真はイメージ的なもので、挿入箇所の前後の文章の場所と繋がらない場合があります。
※お問い合わせ・志歌寿ケイトについてはこちらまで。
(書き方は悩みましたが、わりと堅い感じに書いています。何とでも書けるので逆に難しいですね・・・。「他の文体でやってみて」というお話にも応じます。飽きたら途中からまったく違う文体にするかもしれません(笑)。今のところ実験的に進めていますが、とにかくなんとか最後まで書ききりたいです。)
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